韓国で「吉田清治」が作った謝罪碑が復活、未だ残る従軍慰安婦“ウソ証言”の傷跡

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無縁故韓国人合同墓

 ソウル駅から最寄りの天安駅までは高速鉄道で約1時間、天安駅からはバスに乗って20分ほど北上すると「望郷の丘」バス停に着く。田畑の中にたっぷり敷地がとってあり、まず目に入るのは入口近くに聳える「大韓航空旅客機攻撃被害者慰霊塔」である。これは1983年にサハリン沖でソ連の戦闘機に撃墜された旅客機に乗っていた犠牲者の冥福を祈るものだ。これを背にして左右に墓石が立ち並ぶ中を奥に向かっていくと、「望郷の丘」と漢字交じりで書かれたもう一つの巨大な「慰霊碑」に行き着く。

 ここが中心だが、その慰霊碑の前を左に折れ、「薔薇墓地」と名づけられた区画を進んで「合葬墓地」に入ると、その入り口付近に吉田清治氏の「謝罪碑」はあった。

 福岡県や三重県、山口県美祢市などと掘られた「無縁故韓国人合同墓」の石碑が整然と立ち並ぶ静謐な墓地の中、その一角だけが禍々しい雰囲気をまとっている。まず目に飛び込んでくるのは、吉田清治氏の写真を載せた案内板だ。そしてその横に吉田清治の「謝罪碑」がある。奥茂治の貼った石板は剥ぎ取られて「謝罪碑」の下に並べられていた。そして隣には広島の「高暮ダム強制連行を調査する会」が作った「謝罪」の碑がある。

 吉田清治氏の「謝罪碑」は復活していたのである。

 石板は重量感があった。大きさは、横120センチ、縦80センチ。奥氏が張り付けたものは厚さ3センチで、3つに分かれていた。それは一枚35キロもあったからで、それらを深夜にタクシーで運び、入口から現場までは、一枚一枚、奥氏が運んだという。接着に関しては、左官工事の見習いをして技術を身につけたらしい。

 さて、案内板にはどう書かれてあるか。

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