私が「人工知能は何にでも使えます」と言う理由 ――「自分好み」の情報の中で溺れないために

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「クリエイティビティ」を捉えなおす

 インターネットが経済ルールを変えたことを、多くのビジネスマンや経営者は、当然のように気付いている。ネットワーク外部性をうまく利用すれば、自分の小さなアイデアをユーザーに使ってもらいながら改善し、大きなサービスとして育てていくことができる。シリコンバレーにおいて生まれた「リーン・スタートアップ」と呼ばれる起業の方法論もまた、こうした文脈の中で生まれたものである。

 ゆえに今世紀初頭、インターネットが一般に広がった頃は、誰もがビジネスのクリエイティビティを発揮して「起業社会」なるものが出現する、とまことしやかに喧伝された。それが、どうだろう。少なくとも日本では二〇一九年の今、起業社会が到来しているとは思えない。確かに二十年前に比べれば、転職や起業という従来の終身雇用文化では考えられなかった発想に対して、遥かに寛容な社会になっている。メディア等でも「個の生き方」がクローズアップされる。ただ、そうは言っても、新しい経済ルールをバネにして「個の生き方」へとジャンプする人は限られているというのが実感だ。

 ここで強調しておきたいのは、世の中はクリエイティビティを「あらかじめ備えている人」と「備えていない人」に分かれている、という様な考え方への異議である。クリエイティビティは決して特別なものではなく、生きている人間すべて(極端な言い方をすれば、生き物すべて)に備わっている本能のようなものだと筆者は考えている。

 これをご理解いただくために、日本文化の豊かなクリエイティビティを、日本の外側から見つめた例を紹介したい。

 フランスの哲学者ロラン・バルトは、独自の視点で日本文化の分析を行った。彼の著作『表徴の帝国』(原題「L'Empire des signes」一九七〇年)の中では、私たち日本人が当たり前のように用いている「箸」についての興味深い考察が描かれている。

《箸は、食べものを皿から口へと運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて(単に口へ運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめに──その形そのものが明らかに語っているところなのだが──指示するという機能をもっている。箸は、食べ物を指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう。(中略)食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰をもちこむのである。》(「ちくま学芸文庫版『表徴の帝国』 宗左近/訳」より引用)

《箸は西洋のナイフに(そして、猟師の武器そのものであるフォークに)対立する。箸は、切断し、ぐいと掴まえて手足をバラバラにして突きさすという動作(中略)を拒否する食器具である。箸という存在があるために、食べものは人々が暴行を加える餌食(たとえば、人々のむさぼりつく肉)ではなくなって、見事な調和をもって変換された物質となる。箸は食べ物を、あらかじめ食べやすく按配された小鳥の餌とし、御飯を牛乳の波とする。箸は母性そのもののように倦むことなく、小鳥の嘴の動作へと人をみちびく、わたしたち西洋人の食事の慣習には相もかわらず、槍と刀で武装した狩猟の動作しかないのだが……。》(引用同前)

 バルトが指摘するように、「食べものを皿から口へと運ぶ」という機能にのみ着目すると、箸という道具は非常に冗長な機能を持つ。効率化という観点からは、直ちに見直されるべきものかもしれない。だが箸を使うからこそ私たちは、食べ物を「暴行を加える餌食」ではなく、「見事な調和をもって変換された物質」として、身体に受け入れることができるのである。

 この、いわば「豊かな冗長性」を人工知能社会に持ち込めないだろうか。個々人が違った形で備えている小さな(無駄に見えることもある)クリエイティビティを、価値を共有する誰かを探し出し相互にネットワーク化しながら大きく育てることができるのもまた、人工知能の性質なのだ。だとすれば、私たちが敢えて常に意識し続けるべきなのは、「人工知能は何にでも使える」というような、ある種の素朴な楽観論なのだろう。

人工知能との健全な付き合い方

 新しい技術やビジネスの動きにいち早くキャッチアップしようとするビジネスマンや技術者から、人工知能に関する様々な質問をいただく。その中でとても多いのが「人工知能は何に使えるのですか?」というものである。この質問に対して、事例紹介をしてみたり、あるいは技術的な説明をしてみたり、そもそも人工知能とは何なのかを話してみたりなど、筆者は様々な答え方を試してきたのだが、最近は「何にでも使えます」と言ってみたほうが一番わかりやすいのではないかとすら感じている。実際はこの答えは正確ではないけれども、それによって様々な発想に繋げて行けるからだ。

「もし、こんなことができれば、お客さんや同業者は大喜びするのにな」という、(時には妄想に近いような)思いがあれば、人工知能と呼ばれる技術領域をはじめとするITは、それを完全にとは言わないまでも、近いことなら実現できることが極めて多い。もちろん単に夢物語を語るだけでは、技術者は困ってしまう。「完全なものはできないのはわかっている。だが今どんな技術があって、それを使えばどこまで実現できるかを学びたい。その上で、一緒に現実的なところに落とし込んでいきたいのだ」と率直に話し、丸投げではなく一緒に作っていきたいという姿勢を見せれば、大抵の技術者は協力的な姿勢を見せるだろう。

 拙書『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』の冒頭では、とあるスタートアップ企業の若手開発担当者であるサトシが、技術に明るい研究者のクミコと、経営に明るい同僚のツヨシを巻き込みながら、ビジネスを生み出す様子を物語風に紹介した。新しい技術やビジネスというものは、異なる分野の専門家が、お互いに関心を持って対話を行うことによって生み出されるものなのである。

「今、何が流行っているのか」「今後どんなビジネスが流行るのか」という後追いの発想から、「今から〇〇をやろうと思っている(やり始めている)が、一緒にやりませんか?」と、自らの「想い」に誰かを巻き込んでいく人が少しでも増えれば、そこに人工知能社会のあるべき姿が見えてくるのではないかと、筆者は感じている次第である。

松田雄馬(まつだ・ゆうま) 人工知能研究者、「アイキュベータ」代表。
1982年9月3日生。徳島生まれ、大阪育ち。博士(工学)。2005年、京都大学工学部地球工学科卒。2007年、京都大学大学院情報学研究科数理工学専攻修士課程修了。同年日本電気株式会社(NEC)中央研究所に入所。MITメディアラボやハチソン香港との共同研究に従事した後、東北大学とブレインウェア(脳型コンピュータ)に関する共同研究プロジェクトを立ち上げ、基礎研究を行うと共に社会実装にも着手。2015年、情報処理学会にて優秀論文賞、最優秀プレゼンテーション賞を受賞。2016年、NECを退職し独立。2017年、合同会社アイキュベータを設立。著書に『人工知能の哲学』(東海大学出版部)。

『yom yom』vol.55(2019年4月号)掲載

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