私が「人工知能は何にでも使えます」と言う理由 ――「自分好み」の情報の中で溺れないために

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 タンタカタカタカタカタカ♪ お決まりのスマートフォンのアラーム音で目が覚める。一度、スマートフォンを握ってしまうと、ついついSNSの画面を開いてしまう。いつもの知人の旅行記やディナーの写真が流れ、そうかと思えば、よく見るジャンルのニュース記事が流れてくる。珍しい記事を探してシェアしてくれる友人もいるが、そのジャンルも、よくよく考えると似通ってくる。

 勿論、それは、自分がそのページを開いたり、「いいね!」ボタンをタップしてしまったりするからで、何もしなければ何も起こらないはず。とは言え、そういった記事は、それなりに自分が面白いと思ってしまうので、これがまたタチが悪い。ある程度「自分好み」なのはわかっているし、効率よく情報を集められるのもわかっている。ただ、何となくモヤモヤする。

 SNSには、友人の投稿記事やニュース記事だけでなく、本の宣伝なんかも流れてくる。確かに、自分が良く手にする本のジャンルではある。なのでこれもついつい、リンク先を見てしまう。本当はもうちょっと違うジャンルも読みたいと思うのだが……。そういえば、最近は、書店に足を運んでも、どこかで見たような「売れ筋」の本が多くなってしまった気がする。

 このSNS社会、そしてSNSの裏で動いている人工知能には、便利だと感じつつも、何となくモヤモヤしたものを感じてしまうのだ。

私たちを閉じ込める「小さな泡」

 フェイスブックやアマゾンなどインターネットを牽引するサービスが、こぞって採用している「パーソナライゼーション」というものをご存じだろうか。

 パーソナライゼーションとは、ユーザー一人一人の「年齢」や「住んでいる場所」や「職業」といった属性や、過去の「行動履歴」などのデータを活用し、それぞれに向けて「好ましい」情報を選別して提示するという、ユーザーに対する「カスタマイズ」である。

 例えば通信販売サイトを運営するアマゾン社は、人工知能技術を巧みに利用して、ユーザーが注文する前から、注文を行うであろう商品を予測して配送する仕組みを構築しつつある。さらに、検索サイトを運営するグーグル社は、ユーザーが検索を行うことなく、過去の履歴から欲する情報をすべて予測して提供する仕組みの構築を目指している。こうした現状が指し示すのは、考えることすらなしに生活できてしまう環境が整いつつある、ということだ。

 インターネットを用いて情報にアクセスする際、何をするにも「パーソナライズ」されれば、私たちは自分だけに向けた情報に閉じ込められ、それが世界だと思い込まされてしまう。この状態は一人一人が小さな泡に包まれた状態に喩えられ、「フィルターバブル」と呼ばれている。フィルターバブルは「人工知能社会」と呼ばれる現代社会において、単なる技術的な現象に留まらず、社会全体の問題として認識されている。

 フィルターバブルを社会問題として捉える時、それはしばしば民主主義とセットで議論される。インターネットが登場した当初、誰もが自由に意見を表現できるようになり、民主化が大きく進むと思われた。だがユーザー一人一人がフィルターバブルに包まれ、触れる情報が「好ましい」ものに限られて視野が極端に狭められると、私たちはフェアな判断を下せるのか。言い換えれば、情報の偏りが民主主義を歪めかねないという危機意識だ。

 この問題の影響はさらに、個人が触れる情報に偏りが出ることだけにも留まらない。フィルターバブルは、インターネットという場のみならず、私たちの生きる現実世界そのものを、無味乾燥なものにしてしまう危険性をはらんでいる。

 米国のインターネット活動家であるイーライ・パリサーは、著書『フィルターバブル インターネットが隠していること』(原題「The Filter Bubble」二〇一一年)の中で、パーソナライゼーションの発達した現在のウェブ空間をワクワク感のない、創造的な思考に適さない空間であると指摘する。

《ヤフーが王として君臨していたワールドワイドウェブの草創期、オンラインはまだ地図のない大陸という感じで、ユーザーは自分たちを探検者、発見者だと思っていた。さしずめヤフーは村の宿場というところで、多くの人が集まり、おかしな獣の話や海のむこうにみつけた陸地の話を交換していた。「探検や発見からいまのように目的を持った検索の世界に変化するなど、思いもよらないことでした」と、当時、ヤフーの編集者をしていた人物は語っている。》

 今やインターネットを「探検」するのは人工知能であるグーグルやフェイスブックで、人間に残された仕事は提示された情報を「消費する」ことだけになってしまう可能性がある。自分の力で情報に辿り着く苦労を人工知能が肩代わりしてくれる傍らで、情報を探索するプロセスでの偶発的な出来事や、そこで得られる体験や感覚が省かれて、「誰がやっても同じ結果」だけが効率よく与えられる。「自分」がどこにあるのか、自分の「意思」といったものは本当に働いているのか、すなわち能動性を奪われる感覚を私たちは感じるのである。

 少し議論を先回りすれば、こうした現状についてグーグルやフェイスブックを非難しても意味はない。彼らが生活を便利で豊かにしたこと自体は喜ばしいし、もし彼らのサービスが「能動性を奪う」ものならば、やがては彼らもしくは別の誰かが、能動性をも高めるようなサービスを発明するだろう。私たちの暮らしは(あるいは「暮らし」を支える科学技術の歴史は)改善と改良の中で豊かさのステップアップが実現する「自由経済」を、ある種の前提に置いている。特に日本に暮らす私たちにとっては、自由経済は常識とも言える考え方なのではないだろうか。

 しかしながら、自由経済の常識の下で開発されてきたインターネットは、自由経済の「発展の仕組み」を根本から変貌させる性質も有していたのだ。現時点の私たちは、こうした皮肉な構図の中に立っている。本稿はまず、その認識からスタートしなければならない。

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