「憧れの田舎ライフ」で常に警戒すべき“因習リスク” 若夫婦を苦しめた“奴隷の亡霊”

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軽視できない“因習”リスク

「そんなことを突然、訊かれても、答えられん」

 集落一帯を代々見守ってきた寺の住職らにそのことを訊ねると、顔をこわばらせ、狼狽を隠さなかった。どうやら、県南部から静岡県へと下り、太平洋へと注ぐ天竜川沿いの集落には、広く定着していた習慣のようだった。

 かの地では、子供の運命は、産まれ落ちたときに定まってしまう。長く天竜川沿いで林業を営んできた古老が説くには、

「昔から、長男が家督を継ぐという話は当然あったんだが、そこでは次男坊、三男坊が家を継げないだけではなくて、長男のために生涯を捧げるというか、長男のために尽くして生涯を終えていくっていうことで、まるで奴隷みたいだって言う人もいた」

 先の住職が顔色を変え、言いよどんだのは、そうした者たちが、どのように生き、そして弔われてきたのかを訊ねたときだった。

 住職を強く警戒させたのも無理はない。その因習が戦後も長く続いていた集落や、その周辺域では、どこの家にも「被害者」とでも言うべき「彼ら」が存在していたことを知っている。しかし、今となっては一切触れられたくない。まさに封じられた因習なのだ。立石さん夫妻が移住したのは、そんな“過去を封印した土地”だったというわけだ。

 結局、「彼ら」の痕跡を訊ね歩いても「知っているが言いたくない」「どの家かは教えられない」と、一様にそんな返答ばかりである。

 しかし戦前、この地方に「彼ら」は溢れていた。決して多くはない集落の戸数のなかで、「この家だけ、あの家だけ、ということはなく、どの家にもたいてい2、3人は、そうした人々がいたものだった」(先の古老)のだ。

「彼ら」は長男一家と同居はしているが、食事をするのは、家長である長男や長男家族とは離れた場所であり、寝るのは納屋のような離れの小屋だった。はたから見れば、使用人や家政婦のような扱いに見えるかもしれない。

「彼ら」が、いわゆる「公」の場所に現れることはまずない。村の祭りなど、公式行事やハレの場に姿を見せることは、暗黙のうちに禁忌とされ、「彼ら」もまた、それに抗うことなく了承していた。

 産まれ落ちた家で、長男家のためにただひたすらに農作業や雑務をこなす一方で、もとより現金収入の乏しい山村ゆえ、「彼ら」に労働対価が支払われることはほとんどなかった。「彼ら」はただ長男家に尽くしている限りにおいて、衣食住が保証されていた。

 1964年に刊行された専門誌『精神医学』(医学書院)は、信州大学の研究者らによる調査結果を伝えている。同誌によると、《長野県の山奥の部落で古来その未分化的社会情勢に応じて人間疎外がやむをえず行われ》たとし、彼らの特徴を《感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない》と指摘した。

 明治の始め頃には、2000人ほどの人口に対して、およそ200人の「彼ら」が存在したとされ、人口比にして10%ほどを占めたとみられている。戦後はさすがに激減し、わずか数人にまで落ち込んだようだが、高度経済成長期の前夜まで最後の世代が健在だったことが確認されている。
 
「彼らは“福の神”とか呼ばれたなんて話もあるけれども、あの墓にはびっくりした」

「土饅頭にもなっていない、石がただポツンと置かれた、ただそれだけ。もちろん、家の墓とは別の場所に、ただ石を置いてあるだけで」

「彼ら」の墓を見た立石夫妻はそう言うのだった。立石夫妻が墓に辿り着いたとき、そこにはもちろん、墓誌などは一切なかった。

 墓地と呼べばそう見えなくもなく、ただの野原と言われれば、そうとも見える場所である。ただ、弔いの石は確かに、かつての「彼ら」の存在の数を裏付けるように、そこここに置かれていた。

 立石さん夫妻が移住を試みたのは、地元の人々でさえ押し黙る、そんな過去と歴史をまとった場所だったのだ。詳細を知った夫妻は、見知らぬ土地での就農は諦めた。土地が抱える業の深さともいうべきものを知り、恐ろしくなったからだった。

「もしかしたら、あの石も、この石も、彼らの墓石だったかもしれないなんて思えてきたら、なんだかとても収穫どころじゃないな、なんて思えてしまって……」

 移住支援策、定住促進パンフレットが決して謳わない因習は、長野だけに限らず日本全国、そこここにある。もちろん、そうした因習や暗い記憶は、地元町村誌や活字をつぶさに紐解いても記載されていることもまずない。

 地元の人でなければ、決して外からはうかがい知ることのできない風習と歴史を、日本の集落はどこも抱えている。移住勧誘のパンフレットから、あるいは移住相談会に並ぶ明るい笑顔の担当者からは、その背後に潜む、そんな歴史を見抜くことは難しい。

 人間は、その土地が孕む“歴史”によって育まれるものでもある。過酷な因習、暗い記憶は、住んでみなければ知り得ない。

 そんな土地に一目惚れし、なけなしの貯金や退職金をつぎ込み、何千万円もかけてログハウスでも建てようものならば、後の祭になりかねない。

 まずは借住し、じっくりと「人」に加えて「歴史」を“観察”してから、定住先を決めるべきだろう。移住・定住とは、そんな各地が封印している“歴史”のなかに飛び込む行為にほからならないのだ。

 結局、立石夫妻は、県南部での生活をわずか1年で終えた。南アルプスを越え、今は山梨県側に移り住んだ立石夫妻は、現在は公営住宅を借りながら終の住処を探している。

 ヤバいことがわかったら、いつでも引き払い転住できる、気楽な「借住」こそがお勧めだと、夫婦揃って声をそろえる。その言葉には説得力があった。

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

2019年3月10日掲載

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