飯舘村「オオカミ信仰」の里で始まった「人と人の交流」の地域再生(上)

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 国内では絶滅したとされるオオカミを、「山の神の使い」と信仰する里が福島県飯舘村にある。

 全国に例を見ないオオカミの天井絵を掲げる山津見神社を要に、全戸の住民が氏子である佐須地区。2011年の東京電力福島第1原子力発電所事故で避難生活を強いられたが、2017年3月末の避難指示解除後、これまでに16戸が帰還し、家を改築して暮らし始めた。避難中に神社は全焼したが、天井絵の復元へ向けて住民と支援者たちが知恵を集める一方、農業や環境を再生する実験でも協働してきた。氏子の結束に新しい交流の歴史を加えて今、内外から人が集う里づくりを目指す。

900余年の信仰に集う

 2019年1月3日朝。国道115号(相馬~福島間)を外れて飯舘村への峠道を越えると、標高約400メートルの山里、佐須地区は真っ白な雪景色の中だった。集落の入り口に 「山津見神社」の大きな石の標柱が立ち、その向こうに地元の名山、虎捕(とらとり)山(705メートル)がそびえている。ふもとの山あいの凍結した参拝路を車でたどった。

 1051(永承6)年創建という山津見神社にはこんな由緒書がある。

「約900年前、この地に橘墨虎という兇賊がおり、住民を襲い、豪族たちを従えた。都から奥州に赴任した源頼義が討伐に向かったが苦戦。すると山の神が夢に現れ、『墨虎を討ちたければ、使いの白狼の足跡をたどれ』と告げた。家来の藤原景道らが山に入ると足跡が点々とあり、その先の岩窟に墨虎を見つけた。逃げようとしたが、景道の投げた短刀が背中から胸を刺し貫いた。頼義は山の神に感謝して『虎捕山神』の祠を建て、地名も『佐須』(刺す)となった」――

 山津見神社では新春3日の朝、恒例の「村祈祷」がある。全戸が神社の氏子である佐須の男衆が1軒から1人ずつ集まり、村の1年の安寧、豊作など生業の繁盛、家内安全、火難盗難除け、身体堅固などを祈願するのが伝統だ。

 参道の石段の上と、拝殿の玄関前に阿形、吽形の狛犬が座する。目はらんらんと開き、大きな口には鋭い牙、そして隆々たる体躯。神社の裏から登る虎捕山の奥ノ院にまつられた山の神を、「ご眷属様」と呼ばれる使いの白狼が守護している。そんな姿の狛犬に迎えられ、佐須の住民たちが村祈祷に集まっていた。

 拝殿に防寒着をまとった60余人が集うと、加藤啓介権禰宜(40)が1人1人の名前を挙げて1年の家内安全を祈り、最後に行政区長の菅野宗夫さん(67)が玉串を奉納した。「新年おめでとう」と、3人の氏子総代から家々の神棚に飾るお札が全員に手渡され、原発事故後の避難でばらばらになった隣人が互いの変わらぬ顔を確かめ、拝殿前で記念写真を撮って解散となった。「去年までは避難先から戻らない人が多く、飯坂温泉(福島市郊外)で村祈祷をしていた」と加藤権禰宜。2017年3月末の避難指示解除から2年目で、ようやく地元での村祈祷が復活した。

 その様子をオオカミたちが見守っていた。拝殿天井の計242枚の杉板にそれぞれ描かれた日本画のオオカミ。目をむいて吠える、仲間とじゃれ合う、わが子を慈しむ、悠然と寝入る、草花の陰に潜む、満月に見入る……。自然の懐で自由に、おおらかに生きる姿だ。山の恐ろしい獣という固定観念を超えて美しくユーモアに富み、京都・高山寺の「鳥獣戯画」の人間くさいカエルやウサギをほうふつとさせる。

 オオカミが確かに存在した歴史、古里の自然の豊かさ、その山野で共生する者への親近感。墨虎の伝説が東北の先人・蝦夷の抗争を象徴するように、オオカミの絵は縄文以来の東北の自然信仰も伝える。「この絵がよみがえらなければ、神社を通したわれわれの絆や伝統は断ち切れ、新しい人の交流も生まれなかったかもしれない」。氏子総代の菅野永徳さん(77)は、オオカミたちを見上げて語った。

オオカミが守る暮らし

 永徳さんは隣の伊達市内の仮設住宅で避難生活を送り、昨年11月、妻和子さん(75)と佐須に帰還した。氏子会の総代を36年前から務め、地元で信頼され敬われる長老格だ。原発事故前はコメ作りとリンドウの栽培を手掛け、1970年代には佐須の農家仲間20人で「酪農同志会」を結成して先駆的な酪農にも挑んだ。自宅前に広い畑があり、地区の農地除染が終わった2016年から自宅に長期滞在をしながら、自給自足の野菜作りをしてきた。

 1ヘクタールの水田も除染後に戻ったが、「もう年齢を重ねて、農業に新しい投資はできない」と再開を諦めた。しかし、「佐須に戻ることは、避難を始めた当初から決めていた」。息子さんは伊達市に新居を建てたが、永徳さんは昨年、1869(明治2)年の建築という古い自宅を解体し、柱や欄間など150年来の部材を生かしながら家を建て直した。

 原発事故前は、67世帯、約220人の住民が暮らした佐須の行政区で、これまでに帰還したのは16世帯という。中学生のいる働き盛りの農家の家族も1軒あるが、大半は60~70代。「それでも、村内の他の行政区よりも帰還者は多いと思う。避難先は村から近い伊達、福島などが大半だったが、行政区の会合、班(地区)ごとの人足仕事(共同作業)だけでなく、山津見神社の氏子として参加する年中行事があり、住民はしょっちゅう集まっていた」(永徳さん)

 佐須の1年は、先に紹介した正月の村祈祷で始まり、盆は先祖供養のお札を受け、旧暦9月は水神の幣束、年末は竈(かまど)神の幣束をもらうという。住民は神道(1軒だけ仏教)で、お葬式も神式だ。原発事故で住民が避難した後は、神社の禰宜が避難先の葬祭場に出張して拝んでいた。

 その絆を一目で伝えるのは、家々の玄関に貼られた火難盗難除けの護符。山津見神社は狩猟、林業や鉱業の神、田の神、酒造りの神、安産や良縁の神でもあり、山里の暮らしを守り、豊かな恵みを授ける神と信仰されてきた。

 護符に描かれているのもオオカミ。「家の玄関や台所、納屋に貼り、梨畑などの泥棒除けにもした」。外から里に災いが入り込まぬよう、地区の境の峠や橋などに行って護符を貼るのも、永徳さんらの新年の仕事だ。

 氏子としての特別な絆を培ってきたのは、毎年の旧10月15~17日にある例大祭だ。とりわけ17日は「山御講」と呼ばれ、山津見神社の信者が全国各地から集まって参拝し、祈祷を受けた。「例大祭には信者の多い福島、宮城や全国から2万人以上の参拝客があり、車が大混雑し、参道は数珠つなぎだった」と永徳さん。原発事故後の閑散とした神社の景色から想像できないが、往時のにぎわいを伝える写真を見せてもらった。露天商の屋台もぎっしりと並び、氏子たちは名物の「茶屋」を建て、泊まり込んで遠来の参拝者をもてなした。

 茶屋は、竹や木を組んでカヤ(ススキ)で四方を覆い、屋根にはブルーシートという小屋だ。下には茣蓙(ござ)を敷き、テーブルを置き、「下には炉を掘って炭火を起こし、暖を取って鍋を掛け、熱燗の酒、大根などの煮しめ、そば、うどんも出した。お母さんたちは餅を振る舞った。昔は戦争未亡人たちの茶屋もできて、地元にとって貴重な年越し収入になった」。茶屋は宿泊施設でもあり、1棟に100人も泊まれたという。「最盛期には茶屋が10棟も並んだ。県内外の遠くから参拝に来た人たちと酒を酌み交わし、にぎやかな交流の場になったんだ」。そんな氏子たちの心の拠り所を失わせるような、つらい出来事が6年前にあった。

痛恨の火災と天井絵喪失

 2013年4月1日の暗い早朝。佐須の住民たちは、行政区の総会があった福島市飯坂温泉の宿にいた。そこへ「山津見神社が火災」との報が入った。「車を飛ばして神社に着いたのは、それから1時間後。鎮火はしたが、拝殿、社務所、宮司の家も焼けていた。目の前のことが信じられず、頭が真っ白になった」と永徳さんは振り返る。そればかりか、この火災で現宮司・久米隆時さん(87)の妻園枝さん=当時(80)=が亡くなった。

 佐須の集落が無人になった後も、宮司一家は氏子や参拝者のために避難先から毎日通って拝殿、社務所を開け、古里の再生を祈り続けた。例大祭も、原発事故があった2011年に「事前に多くの方から祈祷の申し込みがあり、お祭りを途切れさせてはならない」(当時の禰宜、久米順之さん=50=)と1日限りの形で催し、以来、信仰の場を守ってきた。

「避難していなければ、駆け付けて助けることができた」と、永徳さんら住民は痛恨の思いで1週間通い、焼け跡を片付けた。園枝さんは現在の南相馬市小高区から嫁ぎ、持ち前の明るさで神社と氏子をつないだ。「私は宮司と付き合いが古く、一緒に菊作りをしたりしたが、表に出る人ではなく、相談事はまず園枝さんだった。村の教育委員や赤十字のボランティアをし、公民館でも生け花や琴を教え、地元の女性のリーダー役だった」

 かけがえのないものの喪失はそれだけでなかった。拝殿にあったオオカミの天井絵だ。

 1904(明治37)年、この地方を治めた旧相馬中村藩の家老だった宮司久米中時が拝殿を新築した際、私財で藩の元御用絵師に描かせたと伝わる。オオカミの信仰は埼玉県秩父市の三峯神社が知られ、やはりオオカミのこま犬や護符があり、全国に分霊社がある。

 東北のオオカミ信仰を調査してきた石黒伸一朗さん(60)=宮城県村田町歴史みらい館専門員=によると、山津見神社には福島、宮城、山形、新潟、北海道に64の分霊社とともに、信者の地域組織である講が各地にあり、天井絵にも宮城県各地の寄進者の名が墨書されていた。「オオカミは生態系の頂点にあり、農作物をイノシシやサルなど害獣から守る頼もしい神だった。海辺の町では漁業の守り神にもなった」

 天井絵と同じ図柄の絵馬やオオカミの木像や石碑なども、石黒さんは宮城県内で相次ぎ発見し、信仰の広がりが年々分かってきた。その象徴こそが天井絵で、他に類例のない全国唯一の信仰遺産、貴重な文化財だった。

「サルの2つの群れが周りの山にすんでいるんだ。食べ物がないらしく、今年は山のクリも、うちの庭のアケビも、熟さないうちになくなった。大豆や稲が食べごろになるのを、じっと見計らっていたのだろう。全村避難になって以来、どこの田んぼにも畑にも何もないからな。数が増えたイノシシの被害もあり、やつらは土を掘り返したり、作物をなぎ倒したりしていくが、サルはもっとひどい。跡形なく食っていくからな」「食害避けの電気柵を何段にも回しているのだが、群れになると怖がらず、どんどん浸入するらしい」

 筆者は全村避難中だった飯舘村で、コメの試験栽培をしていた農家からこんな嘆きを聞かされた。かつて自然の生態系に君臨したオオカミを、人々が農業の守り神として信仰したことの理由はなお消えず、オオカミ不在の現実の風景から、山津見神社の天井絵の存在意味もリアルによみがえった。「火災とともに自分たちの歴史がぷっつり断ち切られた気がした。山津見神社があって佐須の暮らしも文化もあった」と当時、永徳さんは語った。

奇跡の復活と支援者

『拝殿オオカミ絵復活へ 和歌山大教授ら支援 避難住民「帰村への励み」』。こんな見出しの記事を、『河北新報』記者の筆者が書いたのは同年の12月14日。和歌山大学で地域再生学を専攻する加藤久美教授と、特任助教でオーストラリアの写真家サイモン・ワーンさんが佐須を訪れ、永徳さんら神社関係者に「オオカミ絵の再生をお手伝いしたい」と申し出たのだ。

 加藤さんらは、「オオカミへの信仰は自然と人の関わりの象徴。絶滅によって失われた自然とのつながりを今に取り戻せないか」と各地を調査に歩く中で、石黒さんの論文を読み、山津見神社の天井絵の存在を知ったという。2012年暮れに初めて神社を訪ねて全貌に圧倒され、翌年2月に再訪。ワーンさんが天井絵をすべて撮影してデジタル保存をしていた。

「『保存状態がよくない』と心配する園枝さんの話を聞いて写真集にまとめ、届けようとした矢先、神社全焼を聞いた」。民間基金に助成を申請して650万円を認められ、それを元手に支援を申し出た。「天井絵の復活は、原発事故の放射能が隔てた住民と古里の自然のつながりを取り戻す力になるのではないか」とその時の取材に、加藤さんは語った。

 永徳さんはいま、「加藤さん、ワーンさんは佐須の恩人だ。奇跡のような話だった」と振り返る。「焼ける前の拝殿の天井は高くて薄暗く、オオカミの絵はよく見えなかった。どういう価値があるものかも分からなかった。写真集を見せてもらって初めて、どんなに生き生きとして素晴らしいものだったか分かった。2人の申し出がなかったら、天井絵は永遠に消えていただろうな」

 2014年秋に拝殿の再建工事が始まり、永徳さんら氏子会と支援者たち、神社による天井絵の復元プロジェクトもスタートした。しかし、日本画の画家らも交えての模索は、久米順之さんの突然の退職などで中断。加藤さんを通じて再生の筆を託されたのが、東京芸術大大学院の荒井経准教授=現教授=(保存修復日本画研究室)。仏画、天井絵、ふすま絵、杉戸絵など国宝級に至る文化財修復保存の第一人者だ。オオカミの絵のデジタル画像から絵の特徴、画風を分析し、日本画の伝統技法による復元に挑んだ。 

 荒井さんはこう語った。「失われたものを取り戻すのでなく、現代を生きる画家が原作者に成り代わり、心を込めて描く。飾られるのは博物館でなく、100年後の時代の人々も信仰を寄せる場所。写真を元に忠実に『現状模写』するやり方でなく、原作の絵の図象とぬくもりを継承したい。飯舘の自然を私たち自身が感じながら、心を込めて描かせたい」

 2015年6月、研究室の約20人の院生に「原発事故の被災地になった現地に関わり、自分たちに何ができるのかを考えてもらいたい」と呼び掛け、拝殿の再建工事がほぼ終わっていた山津見神社を訪ねて、永徳さんらの願いをじかに受け取った。

祭りのにぎわいを再び

 描き手の1人に、伊達市出身というOGの中学校教師がいた。研究室での復元作業を取材した際、志願した動機を語った言葉が忘れがたい。「原発事故のころは、遠くから古里を心配した。昔、お参りしたことのある山津見神社の焼失が悲しかった。卒業後は日本画から離れていたが、久しぶりに握った絵筆で古里とつながり、役立てるのがうれしい」

 また埼玉出身の男性の院生は、「入学式が震災と原発事故のために中止され、自分も当事者の1人なのだという思いを抱えた」と話した。「卒業制作で震災を扱った同期も少なく、震災、原発事故の前に美術は無力という苦しさ、焦りを共有体験にした世代だった」

 新しい天井絵が佐須公民館で披露されたのは、半年後の11月28日。山津見神社の拝殿再建後、初めて迎えた例大祭の日だ。オオカミの狛犬の傍らに、氏子会が奉納したばかりの白い幟が立てられた。院生らが仕上げた最初の100枚を見ようと、避難先から訪れる住民は途切れることなく、「かわいいオオカミだね」「地元の宝、うれしいの一言だ」「昔は、これほどの絵とは知らなかった」と口々に語り、見守る永徳さんを感激させた。

 荒井さんと共に立ち会った前述の院生は「心を込めて描いたが、果たして受け入れてもらえるだろうか、と恐ろしかった」と話した。が、住民の喜びに触れ、生まれ変わった思いになったという。「地元の人が絵を見る目や心と、描き手の思いが初めてシンクロし、つながれた。もう無力な傍観者でなく、絵を描くことで被災地に関わる当事者になれた」

 その日から3年余り。今年1月3日の村祈祷の後、永徳さんら氏子会の役員は加藤権禰宜と、山津見神社のこれからを話し合った。

 3月末で氏子総代を退任する考えの永徳さんは「今年秋の例大祭を1日限りから、原発事故前と同じく3日間に戻したい。それでこそ神社の復活になる」という希望を伝えた。「和歌山大の加藤さんとワーンさん、東京芸大の荒井さんと院生たち。いろんな人が佐須を訪れて住民に新しい文化を運び、天井絵は復元できた。人と人が交流するムラの伝統はもともと山津見神社の祭りにあった」。住民が各地から訪れる参拝者をもてなした「茶屋」はそのシンボルだ。しかし、保管されていた茶屋の資材は原発事故後、すべて放射性廃棄物として処分されたという。「また一から用意しなくてはならないが、あのにぎわいこそ原点。新たにつくりだすものでなく、われわれがまた持ち寄ればよい」。氏子総代の最後の仕事として、その道筋をつけたいと願う。(つづく)

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

Foresight 2019年3月4日掲載

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