「対日関係重視」にカジを切るメルケル首相に供された「通のワイン」

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 アンゲラ・メルケル独首相が2月4~5日に来日した。安倍晋三首相との間で情報保護協定の締結で大筋合意し、安全保障・防衛分野での協力を推進していくことで一致した。

 貿易と投資面で中国との関係を重視し、日本との関係にさほど熱心ではなかったドイツだが、日本と初めて安全保障・防衛分野の協力に踏み込んだことは対中政策の大きな修正と言えるだろう。自国第一主義を強める米ロ中の大国に対して、先進中級国家の結束が急がれるいま、日独の利害も急接近している。このメルケル首相を、官邸はどうもてなしたのか見てみよう。

「言葉を交わさないように」

 メルケル首相はワイン好きで知られている。2005年の首相就任以来、今回で5回目の来日だが、2回目の2008年の北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)で、議長国の福田康夫首相(当時)と貴代子夫人が主催した社交晩餐会でこうしたことがあった(いまの主要国首脳会議は実務的な会合になっているが、当時は夫人同伴で、初日は首脳夫妻たちの社交を兼ねた晩餐会がもたれていた)。

 ソムリエが首脳らに赤ワインを注いで回ったとき、ワイングラスに口をつけたメルケル首相が近くにいたソムリエを呼び、何ごとか英語でたずねた。美味しいと感じ、ワインがどこの国のもので、ブドウ品種は何かをたずねようと思ったのだろう。

 しかしソムリエや給仕係の人たちは、外務省から「食事中は首脳と言葉を交わさないように」と申し渡されていた。このためこのソムリエはボトルを斜めに傾け、ラベルがよく見えるようにしてニッコリするしかなかった。首相が分かったのかどうか、定かではない。

 「こういうときには、キチンと説明して差し上げるのが本当のサービスだと思います。個人的にも残念な思いがあります」

 ソムリエとして腕がよく、首相官邸などのサービスにも時折、駆り出される彼はこう筆者に明かしている。

 同首相がたずねた赤ワインは、米カリフォルニアの名門リッジ・ヴィンヤーズの〈モンテベロ1997〉だった。2006年、ロンドン、ナパ(米国)で同時開催されたブラインド・テイスティングで、このワインの1971年ものが、2位に大きな差をつけて1位になっている。もしそうした説明を受けていたら、首相はより納得して味わっただろう。

 ちなみに、このワインを出すように指示したのは福田首相本人だった。同首相もワインに造詣が深く、これが任期最後のサミットとなるジョージ・W・ブッシュ米大統領をおもんぱかって出させたのだ(もっともブッシュ大統領は禁酒しており、口はつけなかった)。

1品だけは肉がほしい

 さて今回、安倍首相は4日18時過ぎ、官邸にメルケル首相を迎えた。首脳会談では情報保護、安保防衛以外にも、自由で開かれたインド・太平洋の実現に向けて協力していくことになった。日本との安保協力で米、英、豪、仏に大きく遅れていたドイツは、対日関係重視にカジを切った。

 共同記者会見を終えると、安倍首相主催の夕食会がもたれた。そのメニューである。

先付 蒸し鮑 ずわい蟹
御椀 蓬胡麻豆腐 蛤
合肴 天婦羅(海老 きす かぼちゃ 舞茸 たらの芽)
焼物 太ひらめサラダ焼き 和牛ひれ肉網焼き
食事 にぎりと巻き寿司(鮪 鯛 ぶり 穴子 卵焼き おしんこ巻 かんぴょう巻き) 留椀
果物 

キュヴェ三澤 明野 甲州 2015
グランポレール 北海道余市ピノ・ノワール 2010
清酒 澤乃泉 大吟醸(宮城県)

 官邸は相手が断らない限り和食を供する。ただ同じ和食でも、見ていると2通りある。魚だけで通しているメニューと、魚と肉が共にあるメニューだ。官邸は基本的に事前に相手の好み、苦手なものを駐日大使館に打診し、それに基づいてホテルにメニュー作成を指示するから、メニューには賓客の好みが反映されていると見ていいだろう。

 メルケル首相は魚介類が好きなことが分かる。鮑、蛤、魚介の天ぷら、にぎり・巻き寿司と続く。ただし焼物だけは、魚でなく和牛の網焼きだ。1品だけは肉がほしいようだ。興味深いのは、4年前の2015年3月に来日したときも似たようなメニューだったことだ。

旬菜 ウグイ豆腐 イクラ 蒸し鮑 サーモンずし クリームチーズ西京漬け
吸い物 うにのロワイヤル トリュフあん
造り サクラダイ菜花巻 マグロ シマアジ
焼物 和牛ヒレステーキ 彩り野菜
サラダ 伊勢エビサラダ仕立て
ご飯 サクラエビ たけのこ うすい豆 炊き込みご飯 香の物盛り合わせ 赤だし
デザート フルーツ盛り合わせ

北ワイン ケルナー 2013
ソラリス 信州東山 カベルネソーヴィニョン 2008

 魚介づくしだが、焼物だけ和牛のステーキ。ドイツ人のメルケル首相は、やはり肉料理を1品はほしいのかも知れない。

全国のワイナリーを回る担当者

 料理以上に私が注目したのがワインだ。今回出された白ワインの〈キュヴェ三澤 明野 甲州〉は、中央葡萄酒社主の三澤茂計氏がブドウ栽培からこだわった特別限定のフラグシップワインである。日本固有の甲州種のぶどうで造られ、辛口で引き締まった酸味と熟れた果実の味わいがあり、余韻が長い。

 赤の〈北海道余市 ピノノワール〉はサッポロが造っており、すみれやいちごを想わせる華やかなアロマと、柔らかなタンニン、滑らかな余韻がある。日本海を見下ろす余市のぶどう畑はドイツに似た気候風土と言われている。白赤とも選び抜かれた1本だ。

 ちなみに、2015年のときに出されたワインもなかなかだ。〈北ワイン ケルナー〉は中央葡萄酒(現・北海道中央葡萄酒)が、1988年に千歳市に設立したワイナリーの白ワイン。ケルナーはドイツ固有種で、そのぶどう品種を使った日本ワインをメルケル首相に味わってもらおうとの意図さえ私は感じる。キッコーマン「マンズワイン」の赤のカベルネソーヴィニョン〈ソラリス 信州東山〉は、国際ワインコンクールで度々受賞しているワイン通には知られた1本。20~25年という長期の熟成にも耐えるフルボディーの素晴らしい仕上がりだ。

 官邸の饗宴は、料理はホテルが作っているが、ワインは官邸が決めている。ワインへのこだわりを見ると、おそらく官邸のワイン担当者は、ワイン好きのメルケル首相を念頭に置いて選んでいる。聞くところによると、担当者は日本全国のワイナリーを回っており、この通の選択を見てもそれが窺われる。

 北海道洞爺湖サミットでは白赤とも日本ワインではなかった。しかし2015年、今年と、白赤とも日本ワイン。メルケル首相は日本ワインをどう味わっただろうか。この高いレベルのワインなら、「日本もなかなか素晴らしいワインを造るようになった」と思ってくれたであろうと、個人的には想像する。夕食会は1時間20分続き、午後9時半前にお開きとなった。

皇太子との面会も要望

 メルケル首相は翌5日、皇居・御所を訪問、天皇に謁見し、約20分間懇談した。宮内庁によると、首相が「新年一般参賀の際、大勢の人々を前にあいさつされているのをドイツのテレビで見ました」と伝えると、陛下は「天皇としては最後の一般参賀でしたので」と述べ、退位について説明した。首相は「日本の人々は陛下がご高齢であることは理解しつつも、寂しく感じていることと思います」と応じた。

 注目されたのは、ドイツ側が皇太子との面会も事前に要望しており、同首相が皇太子とも赤坂御用地の東宮御所で懇談したことだ。5月の天皇即位を前に関係を作る狙いもあっただろうが、ドイツの対日政策重視の表れとも見ることができる。

 ドイツの対中政策の修正は、同首相が日本から帰国後の2月中旬、ミュンヘンで開かれた安全保障会議でさらに明らかになった。同首相は同会議の講演で、米ロによる中距離核戦力(INF)条約廃棄の動きについて、「欧州のために作られた条約が、米国とロシアによって破棄されようとしている。我々は軍縮のために全力を尽くさなければならない」と述べた。ただ同時に多国間条約に向けた話し合いも提案し、「中国を巻き込むことを求める」と指摘した。中国は自国のミサイルが含まれることを強く警戒しているが、同首相はあえてそれを求めたのだ。
 

西川恵
毎日新聞客員編集委員。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、論説委員を経て、今年3月まで専門編集委員。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、本誌連載から生れた『ワインと外交』(新潮新書)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。本誌連載に加筆した最新刊『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、さらに『知られざる皇室外交』(角川書店)が発売中。

Foresight 2019年2月25日掲載

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