NHKディレクターと探検家が大いに語り合う「ノンフィクションと小説の境目はどこにあるのか?」 対談・国分拓×角幡唯介

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 アマゾンで100年語り継がれる伝承を書いた『ノモレ』、北極圏の闇夜を80日間ひとりで冒険した記録『極夜行』。8年前に大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞したNHKディレクター・国分拓さんと、ノンフィクション作家、探検家・角幡唯介さんが、今あらたに目指す到達点とは。第2回は、「事実」をどう描くのか。

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角幡 『ノモレ』は、『ヤノマミ』とずいぶん違う書き方ですね。『ノモレ』を読み始めたとき、小説かな、と思いました。「新潮」誌上ではノンフィクションと喧伝されていたけど、国分さんはノンフィクションを書いたつもりじゃなかったんじゃないかという気がしました。今回対談をしてみたかったのも、小説とノンフィクションの境目はどこにあるのか、国分さんと話してみたいと思ったのです。僕自身は、自分が成し得た行動に文章表現を近づけて、ドキュメンタリーにしたいと思って書いています。一方で、三人称で書かれた『ノモレ』は、小説とノンフィクションの枠組を相当揺るがしていますね。
 国分さんの一人称で書かれた『ヤノマミ』は、アマゾンの先住民ヤノマミ族の暮らしや死生観に対する驚きを、書き手である国分さんを通して我々読者は追体験します。そのせいか、ヤノマミは浮気など、人間関係のいざこざがあったり、孤独が好きな男がいたり、僕らと近い存在のように思えます。反対に、三人称で書かれた『ノモレ』では、俯瞰的な視点で書かれているからか、イゾラドが対象として切り離されてしまって、我々と違う人間のような気がしてしまうのです。こちら側とあちら側に切り分けてしまう我々文明側の「原罪」が内包されたような読み物でした。書き方を意識されたのですか。

国分 『ノモレ』にも書きましたし、番組の映像にもありましたが、イゾラドと文明側の人間が接触する場面に、川が流れています。川向こうにイゾラドがいて、川の手前、こちら側に文明社会がある。その全体像を、「僕」の目を通しての一人称では書き切れなかったのです。実際に書いてみましたが、一人称では100枚が精一杯。筋も痩せて見えた。
 次にトライしたのは、伝記もののような書き方。イギリスの作家アレックス・カーショウのように、たくさんのデータを基に、事実をひたすら並べて書くやり方です。「僕」を入れずにファクトだけ書くと、10枚しか書けませんでした。
『ヤノマミ』で言えば僕、『極夜行』で言えば角幡さん。誰か「接着点」が必要なのですが、あの川の両岸は「僕」では接着しない。川向こうのイゾラドと文明側を接着できるのはあいつしかいない。そう思い当たったのが、文明化した先住民集落の若い村長ロメウです。

角幡 最初から本にするつもりで取材したのですか。

国分 違いますね。テレビ番組のときはテレビのことしか現場では考えません。
 2014年に番組の取材をしたときに、現地モンテ・サルバードの長老が、イゾラドのことを「イゾラドではない。彼らは100年前に別れた仲間だ」と言うんです。はるばる東京からイゾラドを撮影しにきたのに、テーマを根底から覆すようなことを言うので、最初は聞かないふりをしました(笑)。「変なことを言うおっちゃんだな」と。でも、何度も真剣に言うから、気になっていました。
 1年後にもう一度現地を訪れたとき、先にナショナルジオグラフィックが取材をしていて、僕たちは取材に入れなくなった。何も撮れずに3日で東京に帰るわけにもいかないし、ヒマだったので、ロメウを始めとする住民ほぼ全員に村のことや生活について時間をかけてインタビューしました。そのとき聞いた話が『ノモレ』の元になりました。

角幡 相当時間をかけて取材しないとこんなふうに書けないだろうな、と思いながら読みました。国分さんは映像と執筆と二つの表現形式を股にかけているわけですが、書く方のモチベーションはどこから来るのですか。

国分 もともと書くことが好きなんです。『ヤノマミ』のときは、藤原新也さんに映像を見ていただいたら、「映像では、アマゾンに流れていた膨大な時間が描かれていない」というようなご感想を知人経由でいただいて、文章を書く動機になりました。

角幡 僕は冒険や探検そのものに力を入れていますが、後で書く前提でやっています。自分の体験を事実としてどう書くか、いつも考えています。『極夜行』でも書いたけど、途中で犬の肉を食って自分だけ生還しようとする。するとそのシーンが文章化されて脳裏に浮かぶ。下手したら、犬を食ったほうが面白い本になるんじゃないか、なんてことすら考えている。行動中に表現者としての自分をおさえられなくなり、頭に浮かぶ文章にしたがって行動しているんじゃないかという気さえしてくるわけです。そうすると、ノンフィクションって一体何なのかな、という疑問にもしばしばぶつかります。
 国分さんは、『ノモレ』をノンフィクションとして書いたのですか。

国分 そういうジャンル分けにはこだわらずに、書きたい世界を書きたい話法で書いただけなんです。
 ドキュメンタリーの世界でも、「ドキュメンタリーとは何か」的な議論があって、若い頃はおっさんたちに夜遅くまでさんざん聞かされたんですね。それが苦痛で。その時も本心では「何だっていいじゃん。それが訴えかける力を持っていれば」と思っていたんですね。それは今も変わらないし、そもそもジャンル分けとかカテゴライズされるのが嫌いなんです。

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