ドイツ兵捕虜たちが“感謝”した徳島「板東俘虜収容所」 称賛される人道的な扱い

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松江の“武士の情け”

 松江の捕虜に対する人道的な扱いは、映画「バルトの楽園」でも描かれている。松江を演じるのは、松平健。1872年に会津藩の武士の子として生まれた松江は、16歳の時に陸軍幼年学校に入校、日露戦争時の韓国駐劄(さつ)軍副官などを経て、44歳で板東俘虜収容所の所長に就任した。

 松江について論じられる際には、会津出身というバックボーンに注目されることが多い。当時の圧倒的な長州閥にあって、“賊軍”としての苦しみを知る松江は、同じく敗者であるドイツ兵たちにも同情の念を覚えた……といった文脈である。

「いわゆる“武士の情け”ですね。とくに、作家の中村彰彦先生が『二つの山河』で松江を描いてからは、こうした見方が根強いです。捕虜に甘ければ、当然、上官からは叱られる。それでも松江所長は自身のやり方を貫いたわけです。お孫さんは現在もご存命で、『肝の据わった人だったと聞いている』とおっしゃっていますよ」(近藤氏)

 松江と捕虜との関係性を表すエピソードとしては、例えば“遠足”におけるこんな逸話がある。当時、今でいうメンタルヘルスの管理のため、収容所の外へ捕虜を連れ出すことが許されていた。山を越えて瀬戸内海の海岸を訪れた際に、捕虜たちがつぎつぎと泳ぎ出してしまうことがあった。沖に出られては捕えがたく、下手をすれば脱走者を出すことになる。だが、松江は遊泳を禁止しなかった。あとで上から咎められた際には、「足を洗わせていたら、泳いでしまった」と“説明”したという。

 あるいは、収容所ちかくの霊山寺と公会堂で、捕虜たちの製作物の展覧会が12日間にわたって開催されたときのこと。会期中には5万人もの人々が訪れたとされるが、軍からは、混乱を避けるため、捕虜が会場を訪れる際には日本人の客を入れないようにとのお達しがあった。建前ではこれを了解した松江だったが、実際は捕虜も一般客もごちゃまぜだった会場の写真が残されている。居合わせた客に狼藉を働かないという、捕虜たちへの信頼があったからこその行いである。また日本の人々も“ドイツさん”をむやみに遠ざけることはしなかった。ちなみに霊山寺の近くには、地元の人たちへの感謝の気持ちから捕虜が作ったとされる「ドイツ橋」が今も残っているという。

 収容所内で発行されていた所内新聞には、〈彼(松江)はわれわれの最善を願ってくれた。ここ2、3年間の生活が本当にしやすかったのは、彼の職務の執行方法によるのであり、われわれはそのことにぜひとも感謝しなければならない〉との記述も残る。

「なにより、解放された捕虜たちが持ち帰った写真の中に、かなりの確率で松江所長の写真が残っているんです。執務室にいたり、馬にまたがっていたり。これは私の憶測ですが、嫌いだったら持って帰らない。記念にしたいからこそ、でしょう」(同)

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