原爆投下が朝鮮民族の分断をもたらした 有馬哲夫(早稲田大学社会科学総合学術院教授)

国際 韓国・北朝鮮

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ソ連が朝鮮半島に居座った

 日本が降伏したあとの1945年9月のロンドン外相会議とそのあとの12月のモスクワ外相会議において、ソ連は科学者が懸念していた通りの(そしてトルーマンの予想に反した)態度をとった。つまり、東ヨーロッパと極東における戦後処理において英米に妥協することを一切拒否したのだ。具体的には、ナチス・ドイツと日本を打ち破るために進出した国と地域からソ連軍を撤退させることを拒み、反対に自らが作った傀儡政権の承認を求めたのだ。

 ソ連の目的は自らの勢力拡大の他に、これらを取引材料にして、原爆の国際管理に自らを加えさせるということもあった。つまり、原爆をアメリカに独占させるのではなく、イギリスと自分を含めた共同管理体制のもとにおき、それによって一国(この場合はとくにアメリカ)の意思によってこの最終兵器を使うことができなくするということだ。

 これは原爆製造に関わった科学者たちが開発当初から唱えていた考えで、彼らは原爆の完成前に、ソ連を加えた形でかならず作っておかなければならないとしていた。

 さらに言えば、アメリカでも前大統領のフランクリン・ルーズヴェルトとスティムソン陸軍長官はこの考えを支持していたのだが、新大統領のトルーマンは、この考えを捨て、ソ連との戦後交渉が有利になるという思惑から国際管理体制を作る前に日本に対し実戦使用してしまった。

 結局、これらの会議のあと、国連のなかに原子力委員会という国際管理のための機関が設置されたが、科学者の予想通り、原爆の独占を手放そうとしないアメリカのエゴのために機能せず、しばらくのちに廃止された。この間、原爆の脅威にさらされ続けたソ連は、取引材料の価値を高めるため支配地域の軍事占領を強化していった。

 この結果、ルーマニアやブルガリアなどはソ連の衛星国になり、ドイツと朝鮮は分断国家になった。ドイツの場合は、英米ソは最初から分断する計画だったが、朝鮮はモスクワ外相会議の段階までは、統一国家として建国させるつもりでいた。それが、原爆の国際管理をどうするかという問題が長引いたために、ソ連軍による朝鮮北部の軍事占領が長期化し、南北分断という選択肢しかなくなっていくのである。

 原爆投下がなく、国際管理体制がスムーズに作られていたなら、戦後処理がここまで困難をきたすことはなかった筈だ。

 この分断は、さらなる朝鮮民族の不幸に連鎖していく。南北に分断されたがゆえに同一民族が米ソのために殺し合う朝鮮戦争が起こる。その死者数は原爆のそれよりもはるかに大きい。

 このようなわけで、原爆投下を喜ぶということは、めぐりめぐって南北分断と同一民族の殺し合いを喜ぶということになる。日本には「他人の不幸を笑ってはいけない」というモラルがあるが、韓国ではどうなのだろう。

 よく韓国人は「歴史を忘れた民族に未来はない」と言うが、私は「真の歴史を知ろうとしない民族に未来はない」と言い換えることを勧める。ただし、これは日本の若者にも言いたい言葉でもある。「他人の不幸を笑う」ことをやめ、ともに真の歴史を知ろうと努力するなら、日韓の若者はともに明るい未来を築くことができるはずである。

有馬哲夫(ありま・てつお)
1953年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』など。9月にこれまでの原爆関連の研究の集大成となる『原爆 私たちは何も知らなかった』を刊行。

2018年11月16日掲載

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