侍従日記が明るみに出す「昭和天皇」戦争責任の苦悩 “東宮ちゃん”今上天皇に引き継がれたもの

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「東宮ちゃん」

 昭和天皇が公の席で戦争責任を認めたことはないが、

「昭和天皇は敗戦の責任を感じ、3度、退位を考えていたことが様々な資料で明らかになっています」

 と解説するのは、現代史家の秦郁彦氏である。

「1度目は終戦の直後。戦犯が指名され、“戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍びがたいので、自分が一人で受けて、退位でもして収めるわけにはいかんだろうか”と側近に伝えています。日本の元首であれば、敗戦国といえど配慮されますが、元首でなくなれば立場はただの人。戦争犯罪人として逮捕しやすくなり、場合によって処刑されることもあり得ました。木戸幸一内大臣は、そういった危険性を承知しており、陛下に“ご退位しない方がいいです”と伝えていました。2度目は東京裁判の判決の日。昭和23年11月12日に退位を考えていた昭和天皇に、マッカーサー元帥が当時の吉田茂首相を通して思いとどまってほしい旨を伝えています。3度目はサンフランシスコ講和会議のときで、この時も吉田の反対で退位はなりませんでした。昭和天皇は常に責任を取らなくていいのだろうかと考え続けてきたことが窺えます」

 宮内庁関係者によると、

「小林さんは、私もお会いしたことがありますが、とても真面目な方で昭和天皇の信頼を得ていました。だからこそ、戦争責任のような、デリケートな問題についてもお話しになったのでしょうね。余談ですが、平成元年から平成3年まで今上天皇の侍従も務めたものの、今上天皇との折り合いは良くなかったと言われています。小林さんへ勲章を授与するとなったときに“今上天皇からの勲章であれば貰いたくない”と辞退した、という話もあります」

“昭和天皇愛”とも受け取れるエピソードだ。とまれ、

「今上天皇は、昭和天皇の平和への思い、遺志を引き継ぎ、さらに育てた方です。そんな今上天皇にとって、今回、昭和天皇の晩年のお言葉が発掘されて、戦争責任に苦悩されていた様子に触れることで、改めてご自身の30年を振り返るとともに、感慨深く思っていらっしゃるのではないでしょうか」(同)

 と、今上陛下の心のうちを推し量る。

「昭和天皇の戦争責任を巡る苦悩や平和への思いは、もっと早くから今上天皇に伝わっていたと思われます。今上天皇は皇太子時代、週に1度は昭和天皇のもとへ御参内され、ともにお食事などをして密にコミュニケーションを取られていました。ときには、現皇太子殿下が同行することもあったようです。昭和天皇は今上天皇のことを『東宮ちゃん』と呼んでいたんですよ。また、昭和天皇は今上天皇に対し、“大元帥であり国権の総攬(そうらん)者だった自分とは異なる天皇像を作り上げてくれる”と期待していたのだと思いますね。今回の日記は、昭和天皇がわが子に伝えていた思いが、改めて資料として出てきたと位置づけられるかもしれません」(同)

 今上陛下は、93年に歴代天皇として初めて沖縄をご訪問され、終戦60年の節目となった05年にはサイパンを、15年にはパラオや日米両軍が激戦を繰り広げたペリリュー島をご訪問になるなど、「慰霊の旅」を続けてこられた。それと今回の日記は無縁ではなかろう。

(2)へつづく

週刊新潮 2018年9月6日号掲載

特集「『小林侍従日記』で明るみに出た新事実 『昭和天皇』戦争責任の苦悩が生んだ『今上陛下』の『制服アレルギー』」より

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