読売新聞が報じた“昭和史スクープ”は歴史的発見か 「東條英機メモ」が語る「昭和天皇」戦争責任の存否(保阪正康)

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一級史料にはほど遠い

 歴代の天皇は在位している時の最大の目的は、皇統を守るという一点である。

 この“目的”のために“手段”がある。皇居で民のために祈る、御製を詠み、この国の文化、伝統を守る。さらには憲法上の国事行為を通して定められた役割を果たす。いずれも天皇にとって“手段”である。

 ところが昭和10年代の軍部は、その“手段”として戦争を選ぶように、天皇に圧力をかけた。

 昭和10年代の公式記録、たとえば御前会議、大本営政府連絡会議、閣議、あるいは政府と重臣などの会議録を読むと、その意味するところは明白だ。何のことはない、東條たち軍部の面々は「早く決断してください。我々はあなたの命令があれば、いつでも戦いますよ」「本当に戦争しかないのか」「戦争しかありません。戦争を選ばなければこの国はつぶれますよ」と詰め寄っているだけである。

 さて、これだけのことを理解して、件(くだん)の7月23日から一連の読売新聞記事に目を通してみよう。

 23日の1面では〈東条 開戦前夜「勝った」〉とあり、社会面では〈東条の胸中 生々しく〉と報じられていた。翌24日の社会面では〈東条 開戦日の治安策指示〉と、その具体策について詳しく紹介している。

 この種の史料が今回発見された神田の古書店に存在することは、実は私も早い機会に聞かされていた。ただ「メモ」の持ち主であった湯沢の親族間で公開を渋っているとの噂も聞いていた。それゆえ今回、明らかにされると知り、期待していたのだが、正直、一級史料にはほど遠いとの感を持たざるを得なかった。

 その理由を箇条書きにすれば、次のようになる。

(1)東條の発言について、この日前後の流れの中で検証が十分になされていない。

(2)あくまで湯沢と木村、2人の部下に指示を与えた中での発言である。

(3)東條の天皇観はすでに「秘書官メモ」などで明らかになっており、それを覆す発見はなかった。

 むろんこの「湯沢メモ」が、開戦前後の流れの中で、どのように位置づけられるかは、精密に検証しなければならない。しかし、果たしてこれほどの報道に値するのかといった疑問は残るのである。

 ただ反面、東條はこうした国難ともいうべき時期の指導者としては、その任に堪えざる人物との評価が定着しているが、その事実を補完する意味はあったといえるだろう。

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