東京上空は半分、米軍のもの―― 西から羽田に向かう旅客機が房総半島まで遠回りするワケ

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 西から羽田に向かう旅客機が、千葉・房総半島まで遠回りするのはどうしてか? 約70年にわたり占有されたままの、1都8県に跨る「空域」について、元防衛事務次官の守屋武昌氏が解説する。(以下、「新潮45」2018年9月号より転載)

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戦争は終結していない

 6月12日、シンガポールにおいて史上初となる米朝会談が実施された。北朝鮮の非核化がもっぱら焦点となっていたが、それほど平和的なものとして私は見ていない。ただし、ここにおいて在韓米軍、すなわち陸海空合わせて2万8千人あまりの兵力の撤退が現実味を帯びてきた。彼らの家族はすでに日本所在の米軍施設に移っている。家族は有事には「人質」になり得るアメリカ人であり、今のうちにその可能性を断っておきたいという意味である。

 米国は北朝鮮を信用していない。7月21日には在韓米軍司令官が「核兵器の製造能力は手つかずだ」と疑義を呈し、警戒を緩めないと発言した。米国は北朝鮮との戦争を、いつでも現実のものとして捉えている。

 北朝鮮との戦いとなれば、地上戦は韓国陸軍に任せ、米軍はもっぱら爆撃機と戦闘機といった航空機を主とした戦闘を選択するだろう。その際にベースとなるのが在日米軍の飛行場である。中でも重要なのが横田基地(東京都の立川、昭島、福生、武蔵村山、羽村の5市と瑞穂町の6市町に跨って所在)、厚木基地(神奈川県大和市、綾瀬市に跨って所在)ということだ。

 1953年に休戦協定に調印したものの、朝鮮戦争は終結していない。北朝鮮と韓国はいまだ戦時下にある。朝鮮戦争が始まったのは、1950年6月。金日成が率いる北朝鮮軍はそのわずか1カ月後には韓国軍を日本海に面する釜山まで敗退させ、GHQ(連合国軍総司令部)は日本駐留の全陸軍部隊を韓国に投入する必要に迫られた。そしてこの時、設定されたのが「横田空域(横田進入管制空域)」である。日本の横田・厚木からもっとも短時間で朝鮮半島に到着出来るよう、米軍は日本上空に米軍専用の「回廊(コリドー)」を確保したのだった。

 当時の航空機の航続能力は現在よりはるかに低く、米本土から朝鮮半島までの飛行はかなわなかった。本土西海岸からまずはハワイにあるヒッカム基地へ、そしてサイパンあるいはグアムの飛行場に、その後、沖縄・嘉手納に立ち寄りそれぞれの地で給油をし、ようやく日本の本州に到達した。横田は日本陸軍の、厚木は日本海軍の施設だったが、終戦後、それらの基地は米軍が接収していた。そこでもう一度、補給を済ませなければ、ソウルに到達しなかった。

 敗戦により日本に進駐してきたGHQの指令により、統帥権の廃止、陸軍・海軍の完全な解体が行われ、非武装化の道を進んでいた日本は、この朝鮮戦争により再軍備を強制された。百八十度の方針転換であり、1950年8月に日本政府は警察予備隊を設置。米国は人員の増大を求める一方で、武器・弾薬・航空機の無償提供と艦艇の無償貸与を日本政府に対して行った。その後も米国からの軍備強化の要請は続き、保安隊、警備隊を経て、陸上・海上・航空の各自衛隊となった。

 朝鮮戦争は終わったわけではなく、横田空域も約70年前から時間が止まったまま、現在でも米軍が占領しているのだ。そして今でも、米軍にとって横田空域の価値は薄れていない。1983年、総理大臣の職にあった中曽根康弘氏が日本列島を「不沈空母」に譬え、物議を醸した。冷戦下のソ連の脅威に対し、日本が米国を守る位置関係にあることを指した言葉だったが、米国にとっての日本列島の戦略的価値は現在も変わっていない。

 現在では厚木および横田基地からB52のような空軍所属の爆撃機が朝鮮半島に出撃した場合、給油せずに北朝鮮上空まで行ける。しかし、軽量化で燃料容積をぎりぎりまで抑えているF15などの海軍の戦闘機は、そこまでの飛行距離はない。空中給油という手段はあるが、利便性を考えれば、日本海を航行する空母上で給油するのが最適となる。

 有事となれば、米軍横須賀基地から日本海に向けて空母が出て行くだろう。同時に空母を護衛する航空機も横田・厚木から飛び立ち、横田空域内を南から北に縦断、日本海に到る。攻撃の選択肢を広げるという意味からも、横田・厚木はこのまま温存したい。

埼玉、群馬はほぼ全域が

 横田空域は1都8県に跨っている。具体的には東京、埼玉、栃木、群馬、新潟、神奈川、静岡、長野、山梨だが、たとえば東京でいえば、世田谷区・杉並区・練馬区の西域より西は米軍機専用の空域で、この空域を管理している米軍横田基地航空管制官の許可がなければ、日本の航空機は飛行出来ない。

 埼玉県、群馬県にいたっては、その上空のほぼ全域が横田空域にかかっている。関東から新潟、長野にかけての広域に、まるで巨大な「氷柱」が延々と連なっていると想像すれば分かりやすい。その高さは最高で7千メートルあり、もっとも低いところでも2450メートルある。以前は3950メートルの高さだった。その広さも以前には、甲府上空や赤石岳(南アルプス・静岡、長野)、八ヶ岳(山梨、長野)にまで及んでいた。

 羽田空港から西日本に向かう空路では、離陸後、旅客機は急上昇して東京湾に出て、その後、大きく上空を旋回し続ける。あるいは西日本から羽田に向かう便では太平洋側の海上、伊豆大島のあたりを通過し、千葉の房総半島上空まで迂回し、羽田に引き返す。なぜ遠回りをするのか、不思議に思った経験を持つ方もいると思う。それは横田空域を避けて飛んでいるからなのだ。

 羽田と北陸を結ぶ空路では、その影響が甚だしい。羽田から小松空港(石川県)への便は横田空域の東側を飛ばなければならず、新潟上空まで行き日本海に出てから金沢方面に向かう。復路では、岐阜・愛知を回り太平洋に出て、やはり伊豆大島上空を回り、千葉上空から大きく迂回して羽田に向かわなければならない。

 恥かしい話だが、長い間、私自身もその存在を知らなかった。航空機の事故など「危険性の除去」のために、東京上空では航空機が飛ばないのだと思い込んでいた。

 ところが1980年代半ば、大阪防衛施設局に勤務していたころ、生駒山から徐々に高度を下げ大阪の市街地上空を通過し、さらに阪神高速道路を低空で横切り、伊丹空港に向かう民間航空機を見て驚いた。それは福岡空港などでも同じで、市街地のすぐ頭上を民間航空機が飛行していた。2年後、東京に戻り、航空幕僚監部の運用課長から説明を受けて、初めて横田空域の存在を知ったのだった。首都・東京上空を航空機が飛ばないのは、まったく別の理由があったのだ。

 2008年9月、日米交渉により横田空域の一部返還が実現している。羽田からの便では北陸方面が約3分、福岡・広島・山陰・ソウル方面で約4分、福岡以外の九州北部、四国北部、神戸、広島以外の山陽、上海で約5分の時間短縮が可能となった。平均すればわずか3分の短縮に過ぎなかったが、国土交通省航空局では年間効果をこう試算した。

 時間短縮効果…約7千200時間

 燃料削減効果…約3千300万リットル(年間国内線燃料総使用量の約0・74%)

 コスト削減効果…約52億円

 旅客便益増加効果…約46億円

 環境改善効果…約8万1千トンCO2(一般家庭における1世帯あたりの年間CO2排出量の約1万5千世帯分に相当)

 在日米軍は横田、厚木のほかに、日本国内に6つの飛行場をもっている(三沢=青森県、木更津=千葉県、岩国=山口県、板付=福岡県、嘉手納・普天間=沖縄県)。これらの基地の上空にも米軍のための「空域」がもちろん存在している。

 たとえば、羽田から那覇空港に向かう際、民間機は沖縄本島の先端から高度を下げ、海面の上を低空で長時間にわたり飛行する。それは米軍嘉手納飛行場が飛行経路の左側にあり、そこを使用する離着陸機の高度より下の空域を飛ばなければ、着陸できないからである。

「ハブ空港」としての利便性

 横田空域があるために、羽田空港では便数の増大に限界があった。新空港が必要となり、考えられた施策が1978年の成田空港の開港だった。しかし東京都心から羽田空港までが約16キロであるのに対し、成田空港までは約66キロある。最近では直通の鉄道路線や高速道路なども複数繋がり利便性はアップしたが、成田空港の使い勝手の悪さは日本の航空行政において長年の課題となっていた。特に東京西部地域からは遠い。

 そこで横田飛行場の軍民共用化を考えたのが、石原慎太郎・東京都知事(当時)だった。都心から約38キロの横田にある滑走路を米軍と共用し、民間航空機にも使えないだろうかというのが、東京都のアイディアだった。2007年9月、防衛事務次官を退職した私に、横田空域について意見交換したいので来庁してほしいとの依頼が電話であった。7階の知事応接室に通され、空域の設置経緯、必要性、返還の可能性などとともに共同使用について質問があった。

 首都圏の空を外国部隊が使用している現実について、石原知事は憤っていた。

「横田空域の返還を国交省にしてもダメなんだ。彼らは『アメリカはなかなか手放しませんよ』と言うばかりで、何もしない」

 知事からは同時に、「同盟国で、日本のような事例が他にあるのか」という質問があった。私はドイツを例に出し、説明を加えた。

 第2次世界大戦の同じ敗戦国であるドイツには、フランクフルト国際空港がある。1948年、東ドイツの中にあった西ドイツの「飛び地」である西ベルリンをソ連が封鎖した。その折りに、飢えに苦しむ市民を救護するため、西側連合軍は空からの食糧投下を実施した。その輸送機部隊が駐留する、大規模な基地であった。

 在職中の1991年、経由地として寄った際、機内の窓からは米空軍の輸送機が多数見えていた。ところが2004年に再訪した際には、その姿は消えていた。同空港はアジア・中近東・アフリカの各主要都市と欧州各都市を結ぶ、「ハブ空港」へと変貌を遂げていたのである。ヨーロッパの中間地点に位置するという、地理的優位性が発揮された結果と言える。

 フランクフルトは首都ではないが、今ではベルリンよりも利便性が高い。アフリカへは日本からの直行便はないが、同地に向かう航空機はまずフランクフルトに寄航し、その後、アフリカの各空港に向かう。アジアにおける日本もフランクフルトと同様な位置にある事実を、石原知事は指摘していた。

 羽田・成田・関西の各空港も、アジア諸国において米国、ハワイ、カナダなどにある主要空港とは最短の距離にある。韓国、中国、ロシア、ヨーロッパの主要空港とも、東南アジア、インドの主要空港とも行き来ができる。ハブ空港としての役割を十分に果たし得る位置にあるのだが、横田空域があるために、その周辺では迂回を強いられている。つまり横田・厚木基地の「ハブ空港」としての利便性を、米軍は独占しているということだ。

 アメリカ西海岸からオーストラリアで給油をし赤道を跨ぎインドへ向かうよりも、厚木・横田で給油してインドに行く方が、はるかに航行距離は短くて済むし、時間も早い。米軍の航空部隊は横田・厚木以外に、沖縄には嘉手納飛行場(米空軍)、普天間飛行場(米海兵隊)があるが、やはり遠い。

 横田空域の問題は、国土交通省(旧・運輸省)及び外務省の所管になるのだが、不思議なことに返還を交渉した形跡はない。防衛庁では2005年10月、「2プラス2(日米安全保障協議委員会)」において「日米同盟:未来のための変革と再編」を米国と結んだが、その中で横田基地及び空域に関しての合意が盛り込まれた。ここで初めて〈米軍が管制を行っている空域の削減〉との文言が明記されたのである。

 2008年9月、横田空域の一部返還で、南東空域の一部の高度を1200~1500メートル下げた。これにより羽田を離陸し西に向かう便が、それまでよりもなだらかに高度を上げることが可能になった。また2010年、羽田には4本目の滑走路も増設出来た。便数も増え、1県1民間空港の流れに繋がったのである。

 ただしその後の日米交渉は止まったままだ。石原知事が求めていた軍民共用化も、まったく進展していない。

守屋武昌(もりや・たけまさ)
元防衛事務次官。1944年宮城県生まれ。東北大学法学部卒。71年防衛庁入庁。長官官房長、防衛局長などを務めた後、2003年事務次官に。07年防衛省を退職した。著書に『「普天間」交渉秘録』『日本防衛秘録』

新潮45 2018年9月号掲載

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