キャスターたちの「薄っぺらな私見」は無価値である ベテランジャーナリストの嘆き

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キャスターは意見を言っていいのか

 SNSも巻き込んだメディア同士の批判の応酬は激化する一方だ。各種月刊誌の見出しを見る限り、最も批判されることが多いのは朝日新聞だろうが、次いでその対象となっているのは産経新聞でも読売新聞でもなく、テレビ局かもしれない。
 キャスターやその隣に座る御意見番的な出演者が一言物申すタイプの民放のニュース番組は、とりわけ批判の対象となっている。

 それに加えて、近年ではNHKでもそうした傾向は見られるようだ。NHKの場合は、メインキャスター自身が「色」を出してコメントを加えていく。
 ファクトを伝えるはずのニュースで、出演者がなぜオピニオンを言うのか、偏向だ、というのが批判する側の意見だ。さりげなくそうしたオピニオンをまぜるケースもあり、その場合は「印象操作」と批判される。
 キャスターやその隣に座る○○新聞編集委員氏の心には何らかの使命感や正義感があるのかもしれない。しかし、こうした意識にこそ問題がある、と指摘するのはベテラン国際ジャーナリストの廣淵升彦氏だ。廣淵氏は、元テレビ朝日の報道制作部長というキャリアを持つが、一貫してキャスターがオピニオンを言うタイプの報道には極めて批判的だった。同局が「偏向」と厳しく批判されるようになるのは、廣淵氏が現場の一線から離れてのことである。
 廣淵氏は、近著『メディアの驕り』の中で、こうしたキャスターたちの姿勢を「使命感が昂じて独善に陥る」と喝破している。マスコミの人間が持つ「社会の木鐸(ぼくたく)意識」こそが危ないのだというのだ(以下、引用は同書から)。

社会の木鐸意識

 廣淵氏は、自身の若き日を振り返りながらこう述べている。

「私がテレビ局に入社したころ新聞社の新人記者たちは、上司や先輩から『諸君は社会の木鐸にならなければいけない』ということを徹底的に叩きこまれていた。素朴な大衆に正しい道を示すのが記者の役目だというのである。時代が移ったいま、この木鐸意識はどうなっているのだろうか。
 各社のOBや現役の記者たちに聞いてみた。ほぼ全員がこの意識が今も尾を引いていると認めた。(略)
 記者たる者は、ただ事実を伝えるだけでは足りない。大衆に対して「正しい道」を解き明かす使命があるというのが、マスコミ各社の精神的な「芯」の部分を占めているのである。
 だが、この意識はいまやまぎれもなく有害と化しつつある。(略)本人たちはそのことに気づいていない。使命感が昂じると、独善に陥り、自分の好みに合わせて報道する危険が増すものだ。
 ベテランの新聞記者で、テレビのニュースキャスターに起用された人たちは、ほぼ例外なしにニュースに自分の意見を入れたがる。自分はジャーナリストであり、ただ渡された原稿を読むだけのアナウンサーとは違う、と言いたいのだ」

 この心理が背景にあると考えると、NHKのキャスターまでもが私見をはさみたがるのも理解しやすいだろう。彼らはほぼ全員、記者出身。だから、ついついアナウンサーとの違いを見せたくなるのかもしれない。

薄っぺらな私見

 こういう人たちの一人に対して、廣淵氏は、こう言ったことがあるという。
「エド・マローは一言も私見を言わなかった。それでも彼の存在感は際立っていた。型にはまった私見なんか言わなくても、彼は社会の多くの人たちから、尊敬され支持された。この線で行きましょうよ」
 エド・マローはアメリカでは伝説的存在といっていいジャーナリストであり、キャスターである。戦時中の緊迫した状況下でも感情的表現などは用いず、冷静かつ客観的に事実を伝え続けたことで知られる。ドイツがイギリスを侵攻している様子をマローはアメリカにレポートし続けた。しかし、常に興奮することなく、感情的言語を使わなかった。その冷静で客観的なレポートが、それゆえに人々の心をつかんだとされる。
 残念ながらキャスター氏は、廣淵氏のアドバイスを聞き流したという。
「この人は、マローの何たるかを知らなかった。それなら彼の偉大さを研究するなりすればよいのだが、それはしなかった。彼にとっては、黙って存在感を磨くことよりも、事故や殺人についての薄っぺらな私見を述べることの方が大事なのだった」

 今もこの種の「キャスター」は珍しくない。むしろ増えているかもしれない。

「これは他のチャンネルに登場する、新聞社出身のキャスターたちについても言えることだった。どうしてそんなに自分の意見が言いたいのか不思議だった。思えばこの人たちは、新聞記事を書く場合にも、事実と私見を適当に混ぜ合わせて原稿を書いていたのではないか。その癖がテレビに来ても抜けないのだろうと思った。
 しかしアメリカのみならず世界のテレビジャーナリズムで尊敬を集めたCBSの大看板ウォルター・クロンカイトも、『ニュースはファクトを伝えるべきだ』に徹していたのである」

私見を言いたい欲望

 多くの日本人のキャスターは、そのような姿勢を学ぶことはなかった。廣淵氏の見方は厳しい。

「新聞出身のキャスターたちの、『私見を言いたい欲望』は、日本のテレビニュースの質をいちじるしく低下させた。しかし当事者本人たちは、それに気付いていなかった。本人たちが恰好よいことを言ったつもりでも、そうした意見の中で『なるほど』と思えるものはまずなかった。大方はピント外れであった。テレビ局のプロパーとして育ってきた社員たちは、『遅れているなあ』と感じ、ひそかにそうしたコメントを軽蔑していたものだ。
 しかしそうした目で自分たちが見られているということは、自分が大記者だと思っている人々は知らないのが常である。報道現場の長たちは、キャスターの機嫌を損ねるようなことは言わない。それでは最もきびしい意見をもっているはずの視聴者の皆さんはどうか。この人々の中には、キャスターたちよりも実務を通して世界のことをよく知り、彼らの知らない『現場感覚』を持ち、『この地域(たとえばヨーロッパ)の人々は決してあなた方が伝えるようには考えていない』と感じている人も多いのである。
 だが彼らは半ばあきらめている。視聴者窓口にいくら電話をしても、日本のメディア特有のバイアス(偏見・偏向)は一向に改善しないからだ」

 キャスターたちは、私見を言うことで何らかの欲望を満足させることはできるのだろう。しかし、それは視聴者の求めるものとは別かもしれないことは知っておいてもいいのではないか。廣淵氏は前掲書の中で、政治とマスコミがもう少し成熟しない限り、日本は危ないという危機感を示している。

2018年8月15日掲載

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