監督たちのバイブル『甲子園の心を求めて』をめぐる物語 脈々と繋がる“幻の名著”の思い

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道輔監督の教え

 野口哲男さん(56)=現・都立昭和高部長=は中学2年のとき『甲子園の心を求めて』を読んだ。父親から渡されて読み、「これだ!」とスイッチが入った。すぐに、「高校は東大和」と決めた。入学すると、3年生のレベルの高さ、部員の多さに圧倒された。本に書かれた道輔監督の教えはそのとおりだった。限られた広さの部室は1年生が使う。3年生たちは倉庫の片隅を使う。グランド整備も3年生たちが率先してやる。

「僕の代の控え投手が、雨が降り出したとき真っ先にブルペンに走ってシートをかぶせた。そういう姿を道輔先生は見ている。ミーティングのとき、“うちの野球部を支えているのは、こういう選手だ”と褒めてくれる。だからといって、褒美はない。けれど、子ども心にすごくうれしい」

 全員野球、レギュラーだけが偉いんじゃないという道輔監督の考えを控え選手だった野口さんも高校時代、身をもって体験した。

「助監督から内野ノックを受けているとき、イレギュラーした打球に逃げてしまった。そしたら“お前のような選手がいるから、甲子園に行けないんだ”と怒鳴られました。その日は眠れませんでした。風呂の中で自問自答して“明日は前に出よう!”と決意しました」

ジンバブエで野球指導

 堤尚彦さん(47)は、中学3年のとき、『甲子園の心を求めて』に出会った。生まれは兵庫県の加東市、小4のとき東京に移り、世田谷リトルで野球をやっていた。野球が大好きだったが、当時流行っていたドラマ「スクールウォーズ」などの影響を受け、「ヤンチャな方向にエネルギーが向いて」、中学で野球はやらなかった。胸の奥に野球への思いがくすぶっていた。本に出会ったのはそのころだ。感銘を受け、「都立東大和に入りたい」と、著者の佐藤道輔さんに手紙を書いた。返事が来た。当時は学区制で越境入学が認められなかった。「君の学区内では、都立千歳は大きなグランドもある……」と書かれていた。運命の糸に引かれるように堤さんは千歳高に入学する。3年夏、主将・4番打者として大会に臨んだが初戦で敗れた。高校卒業後、クリーニング工場で1年働いた後、東北福祉大に進学。4年生に金本知憲(現・阪神監督)や斎藤隆(元ドジャースほか)らがいた。将来は「高校野球の監督」を夢見ていたが、ベビーブームの影響で教員採用試験は超狭き門。現実にはかなり厳しかった。

 高校野球の監督になれない自分に何ができるのか?

 別の夢を模索していた大学3年の夏、ジンバブエで野球指導にあたる村井洋介さんの姿をテレビで見た。番組の最後に村井さんの思いがテロップで流れた。

〈最大の問題は、自分のあと、野球を教えに来てくれる日本人がいなくなることなんだ〉

 瞬間、堤さんの中に衝撃が走った。「自分が行きます」、すぐテレビ局に電話をかけた。青年海外協力隊に入るため勉強し試験を受けた。無事合格、大学を出た年の夏から訓練所に入ることが決まった。夏まで母校の練習を手伝おうと訪ねると、監督として東大和出身の野口哲男さんがいた。野口さんの話を聞き、『甲子園の心』を求める情熱はさらに高まった。

 ジンバブエで2年間、さらにシドニー五輪出場を目指すガーナなどでも指導をした。野球を世界に広め、普及する夢は、佐藤道輔さんが続編で熱心に訴えていた“甲子園を超える活動”でもあった。道輔さんは率先して、野球道具を海外に送る輪を広げていた。それは140年前に日本がアメリカにしてもらったことでもある。

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