「だから死刑は必要だ」 無期懲役囚から廃止論者へのメッセージ

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粛々と執行せよ

 死刑囚が罪を悔い、改心し、被害者の冥福を祈るのは当然のことです。そのことが罪を減じる理由にはなりません。犯罪への深い悔悟の念と、被害者・遺族への謝罪により、死刑囚が人間性を回復し、そのことを第三者が評価したとしても、過ちの責任をとって刑に服することは当然の報いとして残ります。厳密に言えば、仮に遺族が赦そうとも、被害者の命を奪った事実は消えず、罪自体の重さは不変です。

 加害者として、その責任を取り、罰を受けなくてはなりません。

「相手は誰でもよかった」

「人を殺してみたかった」

「悪いと思っていない。寧ろ、ざまあみろと言いたい」

「自分も死にたかったが自殺できなくて、人を殺せば死刑になると思った」

 このような加害者達には死刑という刑罰が絶対に必要です。

 事件後の遺族達は、日常生活で笑えるようになるまで、相当の長い期間が必要だったと語っています。

「人の死を望むことは間違ったことだと思いますが、まだ小さな子を残して、突然、殺されたことを思うと、どうしても犯人には生きていて欲しくないのです。私も、こんなことを言うのは辛いですが」

 ある遺族が、法廷で述べた言葉ですが、第三者は、言葉の奥に秘められた思いを知ることはできません。残された遺族にとって、死刑と無期懲役刑では天と地ほどの差があり、その後の人生にも強く影響するようです。

「執行されても赦さないが、納得する。新しい人生を歩いていく区切りになる」

 事件の時から時間が止まったままの遺族にとって、死刑という刑は、たった一つの精神の支えなのかもしれません。

 多くの加害者は、理論的には更生できる可能性を持っています。しかし、その可能性があったとしても、行った行為を鑑みた場合、更生とは一切関係なく断罪されなければならない時もあります。

 (略)

 死刑制度がある以上、その執行は粛々と行うべきです。法律では確定後、6カ月以内に執行することとなっています。しかし、現実には執行まで何年、何十年とかかり、10人以上を殺害したにもかかわらず十数年も執行されない者もいます。

 行政は法律を尊重して、執行を恣意的に遅らせたり、停止することも避けるべきです。刑事訴訟法第475条では、死刑の執行は法務大臣の命令によるとありますが、死刑判決という司法が決定したことを、行政が個人の恣意判断によって無視するのは許されないことです。仮に、死刑制度に反対の意向を持っていたとしても、その職に在るならば、法律を遵守して職務を遂行すべきであり、それができないのなら職に就くことを辞退しなければならない筈です。

 被害者の遺族には、加害者の執行がある日まで自身が生きていられるか、不安と焦燥の中で暮らしている人が沢山います。高齢の身で、積年の悲しみと疲弊しきった精神を抱え、被害者の墓前に一つの区切りを報告する日が訪れることを、残された自らの寿命と対峙しながら、一日千秋の思いで生きている人のことを知って欲しいと思います。

 ***

 引用中で、美達氏が紹介している受刑者たちの無反省な言葉に対して、疑いの目を持つ人もいるかもしれない。さすがに、少しは反省しているのではないか、オウム真理教の死刑囚たちも反省の弁を述べていたではないか――と。しかし、実際に美達氏が接してきた受刑者の多数派は、こういう調子なのだという。たとえば、自分が窃盗に侵入したにもかかわらず、被害者に非があるかのように罵倒する受刑者は珍しくない。

「あんな所にいるからだ」

「向かってくるからだ」

「騒ぐなって言ったのに大声出しやがって」

「盗られたってどうせ会社の物なのに邪魔するからだ」

 一方で、自分の死刑が確定して、ようやく殺した相手のことを考えるようになった、という死刑囚もいたという。

 実際に刑務所で数多くの受刑者と接してきた美達氏の経験と言葉はきわめて重い。少なくとも「海外からどう思われるか」といった理由で、この制度の存否を決めるべきではないのではないか。

デイリー新潮編集部

2018年8月10日掲載

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