死刑執行の法相は「悪魔」なのか

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 麻原彰晃こと松本智津夫の死刑執行は賛否両論、さまざまな反応を呼んだ。安倍政権に批判的な向きは、これもまたこの政権の抱える問題点の表れである、という捉え方をしているようだ。

 作家の室井佑月氏は、「週刊朝日」の連載コラム(「しがみつく女」)の中で、死刑執行前日に開かれた懇親会に出た上川法務大臣と安倍総理の写真を見たうえで、

「悪魔ってこういう顔か」

 と評している(2018年7月27日号)。

 日頃から厳しい政権批判を展開している室井氏らしい強烈さだが、これに既視感を覚えた人もいるのではないか。

 かつて朝日新聞は、法相就任後に、13人の死刑を執行した鳩山邦夫氏を「死に神」と表現して、本人や「全国犯罪被害者の会」から猛抗議を受けたことがあった。「悪魔」と「死に神」は同種の喩えといっていいだろう。

 死刑制度に反対する人からすれば、その執行を命じる人間を批判するのも、言葉がきつくなるのも当然なのかもしれない。

 しかし、一方で死刑にかかわる側の人の気持ちは考えなくていいのだろうか。

執行する人にも心がある

 養老孟司さんは、著書『死の壁』のなかで、死刑執行について独特の見解を示している。国や制度にもよるが、死刑囚1人に対して複数の死刑執行人がいるというやり方は珍しくない。たとえばボタンを押す方式の場合でも、何個かボタンが用意されていて、複数の人間が同時に押す。押したほうは、誰のボタンが有効だったのかはわからない。

 これは「殺す側」の心に配慮した工夫なのだという。

「毎回、マンツーマンで『自分が殺した』とわかったら、たとえ相手が極悪非道の殺人鬼ばかりでも、執行人の神経が持たないでしょう」(『死の壁』より)

 養老氏がこうしたことを書いたきっかけの一つは、医師として安楽死の問題を考えてきたからだった。安楽死を安易に考える人は「死にたいっていう人がいるんなら死なせてあげればいいじゃないか」「植物状態では本人も家族も不幸なだけだ。早くケリをつけたほうがいい」と言うかもしれない。

 しかし、そういう人は「死なせる側」の医師の立場は全く考えていない、と養老氏は指摘する。

「たとえば目の前に植物状態の患者や、病苦で『死なせてくれ』と言っている患者がいたとします。手元の注射を一本打てば、それで相手は安楽死する。では、そのときに、簡単に注射を打つことが出来るでしょうか」(同)

 本来、医師の仕事は命を救うことである。にもかかわらず、人を死なせる行為をさせられたとして、平静でいられるのか。養老氏は「医者の立場からすると、やはり誰かを安楽死させたという経験は、生涯記憶に残ることのはずなのです」といい、一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が残るはずだとも述べている。

「医者も患者をモノとして見ているわけではありません。逆の言い方をすれば、そういう傷が残らないような人は、あまり医者としていいとは思えない。むろん、安楽死なんかを手がけないほうがよいのではないか」(同)

鳩山元法相の苦悩

 死刑にせよ安楽死にせよ、実際に「手を下す」側にも大きな負担をかける。そのことは忘れないほうがいいだろう。

 かつて「死に神」呼ばわりされた鳩山元法相は、のちに新聞の取材に答え、心理的負担について次のように語っている。

「確かに負担は大きい。が、法相である限り耐えなくてはならないと考えます。私は法相就任中、13人の死刑囚の死刑執行命令を下したが、いずれも大臣室に一人でこもり膨大な資料を読み慎重に判断を下していた。執行前日には必ず自分の先祖の墓を参った。初の死刑執行以後、現在まで毎朝、自宅でお経を唱えている。それだけ法相の責任は重いと感じている」(2009年10月16日付 産経新聞)

 鳩山氏を「死に神」と書いた朝日新聞は、その後「全国犯罪被害者の会」から抗議を受けて、「適切さを欠いた表現だった」と事実上のお詫びに追い込まれている。人の生死にかかわることであると同時に、鳩山氏のように仕事としてかかわらざるをえない立場の人にも苦悩がある。そう考えたとき、安易な表現には気を付けなくてはならないのかもしれない。

デイリー新潮編集部

2018年7月25日掲載

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