ボブ・ディランも出演「フジロック」第1回目をプレイバック

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ボブ・ディランも登場

 今年で22回目の開催となった「フジロック・フェスティバル」。

 現在のフェスブームの先駆者でもあり、参加者の年齢が幅広いことでも知られているが、今年は最終日にボブ・ディランが出演するから、おそらくは高齢者の数も例年以上に多くなると予想される。

 そしてこのフジロックの第1回目が、高齢者どころか若者にとっても過酷なものだったことはよく知られた歴史だろう。名前の通り、富士山の近くで行われたのだが、悪天候の影響などで参加者がかなり悲惨な目に遭ったのだ。

 この第1回以降、フジロックを取材し続けている西田浩氏(読売新聞記者)は、フェスの歴史を紐解いた著書『ロック・フェスティバル』で、自身の体験も踏まえて当時のことを振り返っている。以下、同書から抜粋・引用しながら、伝説の第1回をプレイバックしてみよう。

 個人的にロックファンだった西田氏は、フジロックの開催を知り、画期的なイベントだとは思いつつも「果たして円滑に運営されるのだろうか?」という新聞記者的な問題意識も拭えなかったという。

「最寄りの富士急・河口湖駅から約10キロという不便な会場設定で、3万人規模の動員を見込む巨大音楽イベントの前例は、それまであまりなかったのが実情だ。

 山中湖畔や斑尾高原で行われたジャズ祭は、せいぜい5、6千人の動員規模に過ぎないのだ。

 果たして、それだけの人数の来場者をうまくさばき切れるのか? スキー場に併設される駐車場は約4千台分で、他は公共交通機関に依存せざるを得ない。円滑なアクセスは可能だろうか? 会場内にキャンプ場を設けるというが、警備が手薄になる夜間のトラブル対策は大丈夫か? 素人目にも少なからぬ不安要因があった」

 西田氏は不測の事態に備えて、現地の警察や消防組織を担当する読売新聞甲府支局にも警戒を要請したという。

 そして、不安は的中することとなる。運が悪いことに、台風が関東に向かっていた。

 主催者側は、天候が変わりやすく寒暖差を生じやすい山間部の気象にも備えるよう、参加者に呼びかけてはいた。が、多くの人は自然を甘く見ていた。

 雨具や防寒具で“武装”している来場者は少数。西田氏もジーンズ、半そでのポロ・シャツにウインドブレイカーという格好だったという。それよりももっと軽装な人も多かった。半そで半ズボンが珍しくなかったのだ。

「それでも、午後の早い時間帯は、観客も体力を残していたし、雨も時折小降りになり、さほど辛さは感じていなかっただろう。

 しかし、おそらく午後3時すぎだったと思うが、フー・ファイターズが登場したころから、途切れることのない土砂降りとなり、次第に風も強まってきた。

 分厚いギター・サウンドを背に、鬼気迫る雄叫びを上げるデイヴ・グロールの姿と、風雨荒れ狂う荒涼とした風景が妙にマッチしていたのが、今も克明によみがえる。

 会場は霧がかかり、視界が悪くなっている上、人が密集する客席スペースの前方からは、人の体温で雨が湯気となり、煙のように立ち上るのがわかるのだ」

殺伐とした空気

 寒さが参加者を襲う。それでもマスコミや関係者は控え室を使うことができたが、一般の観客は、雨をしのぐ場所もない。わずかにクラブハウスの軒先で雨宿りはできるのだが、そこはすでに疲労困憊した人で埋まっているという状態。

「控え室に行くには、その人ごみをかき分けて歩かなくてはいけない。暖かな部屋へと歩く筆者に向けられた視線は、まさに針のようだった。控え室に向かう関係者に、軒先にいた来場者が食ってかかり、喧嘩になりかけたところを、居合わせた人が仲裁するという場面も目撃したが、会場は殺伐とした空気へと変わっていった」

 当然、用意されていた救護所も混雑していく。

「救護所をのぞくと、まさに野戦病院状態。朦朧とした状態で床に直(じか)に横たわる人、唇を紫色にして震えている人で足の踏み場もな様子」

 その後、雨は幾分弱くなり、寒さも和らいでいく中、登場したのがトリのレッド・ホット・チリ・ペッパーズだった。

「負傷した腕をギプスで固めたアンソニー・キーディスの姿は痛々しかったが、その歌声は迫力満点。熱のこもったパフォーマンスを繰り広げる。が、当初の予定時間の半分ほどの約40分が経過した時に、ドラムスをひっくり返し、突然の終幕を迎えた」

 この後、参加者たちはさらに大変な目に遭うこととなる。帰路が大渋滞したために、山道の交通は麻痺状態。河口湖駅までわずか10キロほどの距離にバスで1時間もかかる始末。たまらず駅まで歩く人たちは「難民の群れ」のようだと評する人もいたほどだ。

「いいフェスだなと思ったよ」

 結局、2日間の予定のはずが、2日目は中止となってしまう。荒天のせいだと思われがちだが、そうではない。実は1日目とは打って変わり、2日目は晴天だった。それでも中止となったのは、観客の体力を心配してのことだったようだ。

「かなり暑くなることが予想され、今度は熱中症の心配もあり、体力の落ちた観客が、深刻なトラブルに見舞われる懸念もある。開催は危険と判断したのだという」

 後日、ホームページに参加者からは「なんでこんなひどい目にあわなければいけないのか」といった声も寄せられたが、一方で「つらかったが、素晴らしかった」「来年も必ずやってください」といった好意的な意見も少なくなかったという。

 そうした声があったからこそ、フジロックは続き、さらに新しいフェスが次々と誕生したのだろう。

 なお2000年、西田氏はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのボーカル、アンソニーに取材した際に、当時のことを聞いてみた。アンソニーはこうコメントしている。

「すごいハリケーンだったね。そんな中、あれだけ多くの人がステージに熱狂していた。いいフェスだなと思ったよ。

 ただ、僕らのステージの時間帯は、雨はあまり気にならなかったが、風がものすごかった。つるされた照明が、ゆらゆらと揺れて、今にも落ちてきそうだった」

 参加者も出演者も命がけだったということである。

デイリー新潮編集部

2018年7月27日掲載

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