「全英オープン」初制覇モリナリ「静」の戦い方

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 ゴルフ好きなら、1995年の「全英オープン」の大詰めを覚えている人は多いことだろう。

 恰幅のいいイタリア人のコンスタンチノ・ロッカが18メートルほどもあった長い長いパットを奇跡のように沈め、米国の人気者だったジョン・デーリーとのプレーオフへ突入。しかし、聖地セント・アンドリュースを最後に沸かせたのは、ロッカではなくデーリーだった。

 1991年「全米プロ」を無名の新人ながら制し、シンデレラボーイと呼ばれて一気にスターになったデーリーは、あの95年の全英オープンの大詰めで、右こぶしをぶんぶん振り回しながら大観衆を煽り、人々は「ゴー、ジョン! ゴー、ジョン!」を連呼していた。

 その様子をテレビで見ていた米国、いや世界中のゴルフファンは、長い後ろ髪を風になびかせながらセント・アンドリュースを闊歩するデーリーの姿に興奮し、歓喜の声を上げていたに違いない。

 だが、その一方で、ロッカの敗北を静かに見つめていた少年たちがいた。母国イタリアの3色の国旗がゴルフの聖地にはためく期待を小さな胸に膨らませ、しかし夢破れ、悔し涙を目にいっぱい溜めた2人の少年。

 それは、まだ12歳だったフランチェスコ・モリナリと1歳上の兄エドアルドだった。

 デーリーの勝利に沸き返った米国と世界のゴルフファン。ロッカの敗北を黙って見つめていたイタリアの少年。その対比は、まさに「動」と「静」だった。

「スーパー7」

 全英オープンの優勝トロフィー、クラレットジャグを12年ぶりにアメリカに持ち帰ったデーリーの勝利は、以後の「米国勢強し」の流れを作り出す大きなきっかけになった。

 トム・レーマン、ジャスティン・レナード、マーク・オメーラ。デーリー以後は米国人が次々に全英覇者になった。

 タイガー・ウッズは2000年、2005年、2006年に勝利を挙げた。近年ではフィル・ミケルソンが2013年大会を制し、2015年にはザック・ジョンソン、昨年はジョーダン・スピースが勝利を収めた。

 そのジョンソンとスピースに他の米国人選手が加わり、一緒に民家を借りて全英オープンに挑み始めたのは2016年のこと。米国のトッププレーヤーばかり6人が寝食を共にしながらメジャー大会に臨む「合宿スタイル」は、今年の会場カーヌスティ・ゴルフリンクスでも見られ、大きな話題になった。

 最年少は24歳のスピースで、最年長は42歳のジョンソン。その間には、スピースと同い年で親友のジャスティン・トーマスをはじめ、リッキー・ファウラー、ジミー・ウォーカー、ジェイソン・ダフナーと年齢はさまざまな6人。今年から新たにケビン・キスナーも加わり、合宿メンバーは全部で7人になった。

 米国各地には、日本のビジネスホテルよりさらに格安なチェーン展開の「スーパー8」なる安モーテルがある。彼ら7人は、それになぞらえ、彼らの合宿場を「スーパー7」と名付けた。シェフを雇ってアメリカンな料理を作ってもらい、毎日、賑やかに食事や会話を仲間と楽しみ、リラックスしながら全英オープンに挑むという合宿作戦。

 それが、いいのか悪いのか?

 それは、おそらく結果論になるのだと思う。「スーパー7」の中から全英覇者が誕生すれば「いいこと」として、さらなる注目を集めたことは言うまでもない。

 実際、今年のカーヌスティでは、そういう展開になりそうな気配が確かにあった。初日からリーダーボードにはキスナーやジョンソン、スピースの名が浮上。最終日を迎えたとき、最上段に並んでいたのはスピースとキスナーだった。

 そして、「スーパー7」ではないものの、スピースと高校同期のザンダー・シャウフェレも首位に並び、そのすぐ下にはケビン・チャペル、タイガー・ウッズ、マット・クーチャー、ウェブ・シンプソン。

 そんな米国勢がカーヌスティに星条旗を掲げようと気勢を上げていた狭間で、淡々と黙々と勝利を狙っていた外国人選手が1人。それが、イタリア人のモリナリだった。

喧噪の中の静けさ

 母国イタリアを「ゴルフがメジャーではない国」と表したモリナリが、イタリア人選手ばかりを集めて「スーパー7」のような合宿スタイルで全英オープンに臨むことは、まるで無理というもの。

 全英オープンのみならず、他のどんな試合の際も、モリナリはたった1人で単独行動。誰かを伴っているとしても、せいぜいマネージャー、キャディ、コーチ、妻ぐらいで、モリナリの周囲はいつも静かだ。

「スピースらの米国勢」と「モリナリの周囲」。その対比もやっぱり「動」と「静」だが、静かに穏やかにあることは一般的なイタリア人のイメージとは違うものの、実はモリナリの好みであり、モットーでもあり、それが彼の戦いのためのルーティーンでもある。

 最終日のスタート前。強風が吹き荒れていた練習グリーンで、モリナリは淡々とボールを転がしていた。

「あれだけ強い風が吹いていた中で、あれほど静かなムードで練習していたフランチェスコを見て、何かすごいことが起こりそうな予感がした」とは、モリナリのバッグを担いだキャディの言。モリナリ自身も、強風の中でパットの感触を確かめながら「僕の心は静かだった」と振り返った。

 練習グリーン上には同組で回るウッズの姿もあり、その周囲にはウッズを見詰める大勢の観衆がひしめき合っていた。そんな喧騒の中、モリナリだけがとても静かな空気に包まれていた。

一気に「動いた」18番

 モリナリを包む静かなムードは彼のティオフ後も続いた。1番から13番まで、すべてパー。フェアウェイを外しても、グリーンを捉え損ねても、冷静に黙々とパーを拾った。

 パー5の14番で2オンに成功し、2パットで沈めて初めてのバーディー獲得。そのとき初めてモリナリは単独首位に立った。

 スコアも順位も14番で動いたが、難関の15、16、17番は再び静かに戦い、すべてパーで収めた。

 そして最難関の18番で一気に勝負に出た。ドライバーを握り、フェアウェイ右のファーストカットへ。そこから60度のウェッジでピンそば1.5メートルをピタリと捉え、2つ目のバーディーを奪って2位との差を2打へ広げた。

 静かなラウンドを続けていたモリナリが「動いた」と感じさせられたのは、14番と18番、その2ホールだけ。

 とても静かな勝ち方だった。

静かなる「意義」

 とは言え、ウッズと同組で回ったモリナリの最終ラウンドそのものは、大喧騒の中だったと言っていい。3年ぶりに全英オープンに帰ってきたウッズが、2008年以来のメジャー優勝に迫る姿に観衆が興奮しないはずはない。

 だが、モリナリはその喧騒に集中力を阻害されたとはまったく感じていなかった。

「カーヌスティの人々は終始、スポーツマンシップに溢れていた」

 振り返れば、まだ12歳だったモリナリが母国の先駆者の敗北に刺激を受けた1995年の全英オープンは、まだアマチュアだったウッズが生まれて初めて挑んだ全英オープンでもあった。モリナリとウッズの運命の糸は、お互いの人生の要所要所で不思議に絡み合っている。

 そして、23年前から始まったモリナリの挑戦は、今年の全英オープンでついに実り、その姿をウッズがすぐそばで見守っていたことに、やっぱり運命めいたものを感じずにはいられない。

「95年にコンスタンチノを見詰めていた僕のように、今日の僕を見つめた大勢の子供たちが、刺激を受け、意欲を燃やしてくれたら、僕はうれしい」

 きっと「ゴルフがメジャーではない国」でゴルフクラブを握る子供たちは、これから静かに増えていくのではないだろうか。

 全英オープンと先駆者やウッズの存在意義、そして何より、外国人がメジャー大会制覇を目指し、勝利を掴み取る意義を静かなるモリナリが教えてくれたように思う。

 カーヌスティの全英オープンは素晴らしかった。その「素晴らしい」には、たくさんの深い意義があった。

舩越園子
在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。

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Foresight 2018年7月25日掲載

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