桂歌丸さん逝去 笑点50周年で語った「最後は落語家として終わりたい」

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ブラックユーモア

「放送が始まった頃は、マスコミとか芸能関係者のような、いわゆる“玄人”にしかウケなかったんです。それはなぜか。ご存じのように、司会の談志さんは大変ブラックユーモアを好む方だったでしょ。だから、あたしたちにも出されたお題について、できるだけブラックユーモアで答えてくれと言うわけです。ところが、そんなものは一般の人には通用しないわけで……」

 談志は『笑点』に限らず、自身の高座でも際どい笑いを好んだ。例えば、“酔っ払い運転はなぜいけないか。人を轢いた時に達成感がないからだ”とか、“あなたいい身体してるね。顔も良いし綺麗だし、モデルで売れたら一日で500ドルぐらい稼げるよ。売れなかったら? 一晩で稼げるだろ”という具合。明るい笑いよりも、ちょっぴり風刺や皮肉が利いた聴衆をニヤリとさせる笑いを持ち味としていたのだ。

「談志さんは、その手の話が平気でしたけど、さすがに日曜日夕方のテレビでやっちゃあねえ……。茶の間で見ているお爺ちゃんやお婆ちゃんたちはもう、全然笑えないわけですよ。

 談志さんはそういう笑いが好きだったけど、圓楽さんもあたしも、いや、実を言うとほかの皆も好きじゃあなかった。あたしもたまには談志さんにお付き合いをしましたけど、普段はきれいに笑いが取れる答えを考えてました。

 あたしは今でもそうなんですけど、いくら時事ネタでも、悲惨な事件や事故はネタにするもんじゃないって思ってるんです」

 そのため談志と出演者たちの間には、いつしか溝が生まれていたという。結果、番組の生みの親である談志は3年6カ月後の69年11月に降板。ところがその後も司会者は定着せず、後任となった放送作家の前田武彦もわずか1年後の70年12月に交代している。

「マエタケさんには大変失礼なんですが、視聴率が一桁に沈んだこともあったんです。やっぱり、畑が違うと落語家のシャレが通じにくいんですね。そんなわけで、『てんぷくトリオ』の三波伸介さんに司会が代わりました。

 ところが、三波さんもお山の大将だから、こっちが投げた球を上手に受けてくれることもあれば、スッと流しちゃうこともあるわけです。最終的には10年以上続きましたけど、82年に突然お亡くなりになって、それで圓楽師匠が四代目の司会者になったんです」

 試行錯誤を続けた『笑点』も、徐々に国民の間に定着して73年10月には40・5%という視聴率を記録するまでになった。そんな折に番組の名物の一つとなったのが、歌丸師匠と四代目三遊亭小圓遊による“ケンカ腰の掛け合い”だった。

 それは、小圓遊が歌丸師匠を「ハゲ!」と呼べば、歌丸師匠は「オバケ!」と返す。また、大喜利のお題に「新しい英語」が出されれば、歌丸師匠が「小圓遊――、フランケン・ブルドッグ」と揶揄し、小圓遊は「歌丸――、ハゲ」とやり返す。そんな2人の罵り合いは、いまも語り草となっている。

「あたしらのケンカのきっかけを拵えたのは、大喜利のお題だったんです。『新聞を読んで一言』というもので、あたしが『おい、小圓遊が殺されたよ』って笑いを取ると、小圓遊が負けじと『その小圓遊殺しの歌丸が捕まったよ』って続けたんです。それであたしはもう一回手を挙げて、『小圓遊殺しの捕まった歌丸は無罪になったよ』って言ってやった。これがもう、バカウケしましてね。あまりの大ウケぶりに、それからもやり合うことになったんです。

 それからあたしの奥さんの名前は『冨士子』って言うんですけど、小圓遊の奥さんも字が違うけど『藤子』っていう。だから、お互いに恐妻家みたいな感じでネタにしたこともありました」

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