戻ってきた“ノーベル賞に最も近い日本人” がん医学権威「世界のナカムラ」が祖国に絶望したワケ

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「一匹狼」の日本批判

 1952年、大阪に生まれた中村は、府立天王寺高校、大阪大学医学部というエリートコースを歩み外科医の道を選ぶ。大学病院、救急医療、小豆島の町立病院などさまざまな現場を渡り歩くなかで痛感したのは「がん」に対する己の無力さだった。切除してもすぐに再発。お腹を開いても手の施しようがないほど進行している。「お腹の塊をどうにかして」と泣き叫ぶ患者を看取ることしかできない。この「悪魔」をどうすれば打ち負かすことができるのか。苦悩のなかで、がん患者には「個人差」があることに気づき、これは「遺伝子の差」が関係しているに違いないと考えた。が、「ゲノム」という言葉を使う人は限られていた時代。いったいどうすればいいのか途方に暮れていたある日、海外の医学雑誌の記事に目が留まった。米・ユタ大学のレイ・ホワイト教授が遺伝性大腸がんの研究をおこなうというのだ。これしかない。迷うことなく参加を志願する手紙を送った。「ゲノム研究者・中村祐輔」が誕生した瞬間である。

 ホワイト教授から快く迎え入れられた中村は、DNAのなかでどれが父親由来か、母親由来かを判別するマーカーを多く発見。それらは後に世界中の研究者から「ホワイト・ナカムラマーカー」と呼ばれ、遺伝子研究の発展に大きく貢献した。

 5年間の研究生活を終えて帰国した中村は、ゲノム研究に理解を示した菅野晴夫・癌研究会癌研究所(現・がん研有明病院)所長(当時)に迎えられ、36歳という若さながら生化学部長に就任。ゲノム解析を新薬の開発に結びつける研究をスタートさせ、それが結実したのが、がん細胞を殺す「キラーT細胞」というリンパ球を増やす新薬「がんペプチドワクチン」の開発だった。こうして誰もが認めざるをえない実績を積み重ねていく一方で、「一匹狼」「異端児」という陰口も増えていった。理由は、中村と5分も話せばわかる。

「日本の医師は研究費をもらうのに四苦八苦して論文を書くことがゴールとなっている。研究を患者に還元しようという人が少ない。それは国立がん研究センターも同じで、標準治療のガイドラインに固執するせいで、それらの治療法が合わず選ぶ道がない“がん難民”をつくり出していることに気づいていない」(中村)

 日本のがん治療では、外科治療(手術)、放射線治療、そして化学療法(抗がん剤治療)という3つが「標準治療」とされ、それ以外の治療は「邪道」扱いされる傾向が強かった。海外のがん医療で主流となってきた「ゲノム」への無理解は、中村からすれば時代錯誤以外の何物でもないが、「歯に衣着せぬ日本批判」をおこなう彼の主張は、「医療ムラ」から煙たがられた。

 そんな「一匹狼」に大きな転機が訪れる。2011年1月、民主党政権が日本の医薬品、医療機器の国際競争力を高めることを目的として設立した「医療イノベーション推進室」の室長と内閣官房参与に中村を任命したのだ。「医療制度こそ元凶」と訴えてきた中村にとって、医療改革の「司令塔」はまさに望んでいたポスト。彼はその意気込みをこう語っていた。

「日本発の革新的医療を日本の患者さんたちにいち早く届けられるよう全力をあげています。患者さんに新規の医療を届けたくても、日本独特の壁があってできない面も強かったですから」(同年3月15日付産経新聞)

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