「機械が仕事を奪う」という議論の単純さ(古市憲寿)

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 自動運転車が世界初の死亡事故を起こした。横断歩道のない暗闇で、自転車を押して歩いてきた女性に衝突してしまったのだ。

 人間ならば防げていた事故かどうかはわからない。その意味で「自動運転は危ない。運転は人間がすべきだ」と結論するのは早計だ。何せ世界保健機関の発表では、毎年125万人が交通事故によって命を落としているのである。

 現時点でわかっていることは「人間による運転はかなり危ない」ということだけだ。実験が始まったばかりの今、機械と人間のどちらが運転に向いているのかはわからない。

 しかし、今回の事故が、自動運転や人工知能を神のように崇める風潮に冷や水を浴びせたのは事実だろう。人間にとって、運転というのは決して難しい作業ではない。免許が1日でとれてしまう国もあるくらいだ。

 この数年、多くの仕事が人工知能によって奪われるという議論が人気である。しかし、運転という誰でもできるようなことさえ、機械はまだ完璧にはこなせない。人間が機械に支配されるのはまだ先になりそうだ。

 一方で、人間はすでに相当程度、機械のいいなりになっていることも事実。

 例えばカーナビでは、目的地を設定したら、人間はまるで機械のしもべのようにハンドルを握ることになる。「この先、右です」などと散々指示を出された後、「目的地に着きました。お疲れ様でした」と労をねぎらわれる。シンギュラリティなど待つまでもなく、運転案内に関して人類は、とっくに機械に追い抜かれているのだ。

 当たり前の話だが、適材適所ということなのだろう。人間に向いている仕事もあれば、そうでない仕事もある。自動運転に関しても、日本の狭い路地を縦横無尽に機械で走らせるのは難しいだろうが、まっすぐな道が続く高速道路は技術的ハードルが低い。

 しかし、自動運転の長距離トラックや高速バスが実現するにはまだ時間がかかりそうだ。なぜなら、技術的に可能であることと、社会がそれを受け入れるまでには時間差があるから。

 しかも歴史を振り返れば、「機械が仕事を奪う」という議論の単純さがわかる。

 炭坑夫、氷売りなど、多くの職業が消えた。これらはロボット炭坑夫やAI氷売りの登場で消滅したわけではない。発電方法が石炭火力から石油火力や水力になったり、冷蔵庫の登場で不要になったのだ。

 ロボットや人工知能の議論では、既存の仕事がそのまま機械に代替されることをイメージしがちだ。しかし未来においては、産業構造や、社会のあり方自体が変わっている可能性も高い。

 自動運転に夢を見ること自体、20世紀的な発想なのかも知れない。すべてが家で済む時代が訪れたら、運転自体、必要なくなるのだから。「昔の人は、運転を機械にやらせようとしてたらしいよ」「便器の上でVRゴーグルをかぶっていれば移動なんて必要ないのにね」とバカにされる日が来るのかも。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2018年4月19日号掲載

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