イスラム教「過激化」の背景には「グーグル検索」があった

国際2018年3月6日掲載

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驚きの「イスラム教の論理」を解剖する(3)

 イスラム教徒はしばしば「親日的」と言われる。1983年に放映されたNHKの朝ドラ「おしん」や、「キャプテン翼」「ドラゴンボール」「ポケモン」などのアニメが大人気を博したように、日本のサブカルチャーはイスラム圏でも根強い人気を誇っている。

 また、日本はイスラム圏の国々に侵略した過去がなく、むしろアメリカに原爆を落とされるなどしたこともあり、イスラム世論は親日的である、とも言われる。少なくとも、積極的に反日のイスラム国家は見当たらない。

 こうしたことから、「自爆テロリストに遭遇しても、日本人なら見逃してくれるのではないか」と漠然と考えている人も少なくない。しかし、著書『イスラム教の論理』で、イスラム社会の独自のロジックを解き明かした飯山陽(あかり)氏は、「イスラム教徒から見れば、異教徒である日本人は明確に敵である、ということになります」と、こうした見方を戒めている。

「私は日本人だ。撃たないでくれ」と懇願しても

 2016年7月にバングラデシュのダッカで発生したテロ事件では、22人が殺害されたが、その被害者のうち7人は日本人だった。

 バングラデシュは、外務省のホームページにも「極めて親日的」と記されている国である。その親日的な国で多くの日本人が殺されたことに衝撃を受けた人も少なくないが、飯山氏によると、「バングラデシュが親日国であることと、同国で発生したテロで多くの日本人が殺害されたことの間には何の因果関係もない」という。

「テロリストは『イスラム国』の戦闘員であり、その思想においては『日本人=殺すべき敵』なのです。そもそも論で言えば、神の言葉を記したコーランに『あなたがたが不信仰者と出会った時はその首を打ち切れ』(第47章4節)と記されているように、イスラム国の方こそコーランの教えに忠実に行動している、とも言えます」

 ダッカのテロ事件では、テロリストに拘束された日本人が「私は日本人だ。撃たないでくれ」と懇願したにもかかわらず殺害された、と報道されている。自分が何一つ悪いことをしていなくても、「イスラム教徒ではない」という理由だけでテロリストに殺されること、しかもそれがコーランの教えの忠実な実践であるとすら考える者がいるという現実が、そこに存在している。

インターネットによって普及する「正しいイスラム教」

 そうは言っても、現実的には多くのイスラム諸国で異教徒が平和的に暮らしてきた。いくらコーランが命じているからといって、イスラム教徒とて積極的に異教徒を殺したいとは思わないだろう。実際、「厳密なコーラン解釈」に拘泥することなく、多くのイスラム諸国では、これまで穏健派イスラムが大勢を占めてきた。

 それが近年になって過激化の様相を強めているのは、実はインターネットによるところが大きい。人々が地元のイマーム(イスラム教指導者)や穏健なイスラム法学者を通じてイスラムを学んでいた時には、コーランの中で、直接的な行動を促すような過激な文言は極力避けられていた。それが、インターネットの登場によって、第三者を介さずにコーラン解釈が可能になったことで、それまで隠されてきた「正しいイスラム教」の姿が広く知られるようになってきたのだ。

 インドネシアは従来、「穏健なイスラム国家」と言われてきたが、近年、「過激化」の様相を強めている。2012年には「イスラム教の価値観に反する」という理由でレディー・ガガのジャカルタ公演が中止された。2017年には、中国系キリスト教徒の元ジャカルタ州知事が、「イスラム教を冒涜した」という理由で有罪判決を受けている。

 こうした「過激化」の背景には、コーランやハディース(預言者ムハンマドの言行録)に関する膨大な知識を有していなくても、アラビア語が読めなくても、グーグル検索と翻訳機能を使えば、「正しい教義」を自分で探り当てられるようになったことがある。

「正しい教義」を知れば、インドネシアの現実が「カリフ制」でもなく、「イスラム法による支配」でもなく、「異教徒との聖戦(ジハード)」に邁進するわけでもない、イスラム教の理想からはほど遠い状態にあることに気付かざるを得ない。

 一度、「気付いてしまった」イスラム教徒たちを、穏健派イスラムに立ち返らせるのは極めて難しい。いまやイスラム教徒たちは、「不信仰者の首を打ち切れ」とコーランが命じていること、それを文字通り実践している「イスラム国」のような集団が「活躍」していることを知っている。我々が直面している国際社会には、そういう厳しい現実がある。

デイリー新潮編集部