任侠「人生劇場」沢島忠監督と鶴田浩二秘話

エンタメ 映画

  • ブックマーク

Advertisement

 映画監督の沢島忠(さわしまただし)さんが、1月27日、多臓器不全で亡くなった。「人生劇場 飛車角」3部作(1963〜64年)で東映に任侠映画という柱を確立した名匠である。享年91。滋賀県出身で50年に東映の前身、東横映画に入社。57年「忍術御前試合」で監督デビュー。「一心太助」シリーズでは萬屋錦之介を一躍スターダムに押し上げた。

 当時の東映をよく知るOBが回想する。

「娯楽モノを撮らせたら、沢島の右に出る監督はいなかったね。皆、夢中になった。職人肌で時代劇や任侠映画も良かったが、ひばり映画が素晴らしい。一種のミュージカルだった。美空ひばりは、彼を尊敬していたよ」

 時は高度経済成長期。映画は庶民最大の娯楽だったが、東映は苦戦していた。

「映画界も時代の曲がり角に立っていた。当時、東映の東京撮影所には、後に社長になる岡田茂が興行成績の不振を理由に、京都から左遷させられて来ていた。岡田は尾崎士郎の小説『人生劇場』を徹底的に翻案して、末期がんで病床にいた尾崎に映画化を懇願した。彼の愛した銘酒『賀茂鶴』3本を手土産に嫌がる尾崎を口説いたんだよ」(同)

 飛車角(ひしゃかく)に鶴田浩二、その情婦おとよに看板女優の佐久間良子、飛車角の手下(てか)の宮川に高倉健を配し、時代劇の名人沢島を京都から呼び、岡田は万全の布陣を張る。

 ヒット作に恵まれず鳴かず飛ばずの鶴田、演技派への脱皮がままならない佐久間、2人は沢島の「人生劇場」の大ヒットで息を吹き返した。高倉の看板スターへの道も拓かれる。

「撮影中、鶴田と佐久間は熱烈な恋におちた。『人生劇場』秘話のひとつかな」(同)

 第2作では、後に連れ添う平幹二朗も出演したのだから、縁は異なものです。

週刊新潮 2018年2月8日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。