“制服”“校則”なしで64年連続東大合格者トップテン! 日本一自由な学校「麻布中高」の学園紛争

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日本一自由な学校「麻布中高」の「自由」の授け方――おおたとしまさ(上)

 戦後、東大合格者トップテンから一度も外れていない麻布中学校・高等学校。橋本龍太郎、 福田康夫の両元総理から前川喜平氏まで、OB人脈も華麗だが、 実は制服も校則もなく、生徒たちは日本一の自由を謳歌している。麻布ならではの学びは、その自由の中にあった。

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「革命」の瞬間を語るとき、「英雄(ヒーロー)」の表情は暗かった。それを見て、私は自分の浅はかさを悟った……。

 東京都港区にある麻布中学校・高等学校は「自由な学校」の代名詞として知られる。制服もなければ校則もない。不文律として「校内での鉄下駄は禁止。麻雀は禁止。授業中の出前は禁止」の3項目があるだけだ。場合によっては「全裸での外出禁止」が加わる。麻布がいかに自由であるかを表現するネタである。

 戦後、新制の中高一貫校になって迎え入れた生徒が卒業した1954年から現在まで、東大合格者数ランキングトップ10から一度も外れたことのない唯一の学校でもある。なのに一度もナンバーワンになっていないのが麻布らしいツメの甘さ。しかし、それがいい。下手にナンバーワンになって、「1番の学校だから」という理由で入学する生徒が増えると、麻布の校風が変わるリスクがある。

 さて、冒頭の「革命」とは、麻布が69年から71年にかけて経験した学園紛争を指す。当時、全国の高校で紛争が起き、そのほとんどが説得あるいは鎮圧される形で終わった。生徒側が「勝利」した希有な例が麻布の紛争である。

 このとき「誰かに定められた規律によらず、自ら定めた規律に従うときのみ、自由である」という理念が麻布に確立した。学園紛争はその「本当の自由」を勝ち取るための闘いだった。

「英雄」とは、麻布の学園紛争において、学校側と直接対峙した生徒の一人である。ここでは仮にA氏と呼ぼう。学園紛争の最中、生徒たちの投票によって、議長団に選ばれた。

 麻布生は入学すると早々に創立者・江原素六の人生、そして学園紛争についての話を聞かされる。恥ずかしながら私も麻布に学んだ者である。学園紛争を闘った先輩たちを「英雄」だと思い、いつか直接会って話をしてみたいと思っていた。

山内校長代行の恐怖政治

 60代半ば。背丈はさほど高くはないが、眼光は鋭い。私が『麻布学園の一〇〇年』をめくると、「これが私です」と写真を指して苦笑いする。71年11月13日の全校集会でマイクを握る山内一郎校長代行のすぐ背後に立ち、こわばった表情を見せる長髪の青年こそ、高校3年時のA氏である。

 時代は「70年安保闘争」の最中。69年1月の東大安田講堂事件、それにともなう東大入試の中止など、大学紛争の影響が高校にもおよんだ。中核派や革マル派などの「セクト」の流れをくむ「反戦高協」「反戦高連」といった高校生組織まで出現した。麻布の一部生徒にもその息がかかった。

 70年の建国記念日に、2・11粉砕闘争統一実行委員会(以下、統実委)を称する生徒たちが麻布の中庭から出発するデモを計画。藤瀬五郎校長がそれを認めなかったため、生徒たちが校長室を占拠した。A氏は当時高校1年生だった。

 事態収束のために全校集会が開かれた。

「反戦高協と反戦高連は要するに中核と革マル。全校集会では彼らがいっしょになって壇上にいました。そんな雰囲気の中で統実委と生徒協議会と学校による話し合いが行われ、そこで確認されたのは意味のあることだったと思います。すべての活動は基本的に自由だと。しかし、学校の中でのことにはルールが必要だと。そのルールはみんなで話し合って決めなければならず、破った場合にも単に処分するのではなく、何らかの折衝のような形をとって解決しなければならないと。当時全国の高校で紛争がありましたが、あれだけ民主的な合意にこぎつけた例は珍しいと思います」

 しかし、藤瀬校長は混乱の責任をとる形で辞任した。

「藤瀬校長に辞任を迫ったのが理事会の山内一郎だったようで、高2の始業式に、山内が校長代行を名乗って生徒の前に現れました。生徒たちが騒ぐと『黙れ!』と恫喝する。そして藤瀬校長時代に全校集会で確認したことを全部反故にすると宣言したのです」

 山内校長代行も麻布の出身だった。実質的に校長の地位に就き、恐怖政治が始まった。生徒たちには青天の霹靂で、教員の態度も二分した。学校は荒れたが、山内代行はさらなる強硬姿勢で押さえつけようとした。

 71年の文化祭で緊張がピークに達する。

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