高校生にして進駐軍クラブで歌った「故・ペギー葉山さん」素直さと向上心(墓碑銘)

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 残すところあとわずかとなった2017年。きたる新年を迎える前に、今年旅立った故人に思いを馳せれば、あの歌声が蘇る……。週刊新潮の連載コラム「墓碑銘」から、ペギー葉山さんである。

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 ペギー葉山さんの本名は、森シゲ子。旧姓は小鷹狩(こたかり)という。さかのぼれば、父方は広島藩主・浅野家の家老、母方は会津の白虎隊の生き残りである。日系二世風のこの芸名は、友人の知り合いのアメリカ人から、君の声のイメージはペギーだね、と言われ、これまた友人から、御用邸のある葉山なんてどう、と決まったという。

 ペギーさんと同年生まれで65年以上の縁がある音楽評論家の安倍寧さんは言う。

「この芸名には、敗戦からまもない時期の歴史的背景があります。進駐軍のクラブで活躍する人達、特に歌い手には、ナンシー梅木もそうですが、呼びかけやすいようにアメリカ風の愛称が必要だったのです」

 1933年、東京生まれ。父親は貿易会社に勤務し、欧米の文化に理解があった。音楽が好きな家族で、ペギーさんは宝塚歌劇に憧れていた。

 敗戦後、中学から青山学院に進むと声楽を習った。日系二世の親友の影響で英語の曲が好きになる。米軍向けラジオを聴いて歌詞をノートに書き取り、わからなければ英語の先生に質問した。

 請われて高校生にして進駐軍クラブで歌い始めると、色気には欠けるが、正確な英語で歌うと評判になる。見込まれて、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手に。

「ペギーさんは10代の若さを売り物にせず、本場アメリカの人達が実力を正当に認めていました」(安倍さん)

 ジャズに詳しい音楽評論家で、ペギーさんより年上の瀬川昌久さんも振り返る。

「出発点はジャズで、アメリカのポピュラーソングを大切にしていました。ステージ上でも華があり、楽しい気分にさせたのです」

 高校卒業後、52年に『ドミノ』、『火の接吻』でレコードデビュー。54年には紅白歌合戦に初出場。常連となり、66年には司会を務めた。

 代表曲に挙げられる『南国土佐を後にして』は予期せぬ大ブームだった。58年、NHK高知放送局のテレビ開局記念で歌うことを頼まれた時、民謡調の歌謡曲に戸惑う。丁重に断ったが、ジャズのフィーリングのペギー調で構わないと懇願されて引き受けた。それが200万枚もの大ヒットを記録、今も歌い継がれている。

「ペギーさんはミュージカルでも日本における先駆者ですが、ペギーさんが出演するのに『南国土佐〜』を歌わないとお客さんが承知しない。本来の筋では必要ないのに歌う場面が作られたこともある」(安倍さん)

 ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中歌『ドレミの歌』には、自ら日本語の歌詞をつけた。

「直訳ではなく、ドはドーナツのド、とセンスがあります。この歌にほれこんだ様子が伝わってきた」(瀬川さん)

 レコーディングした曲は約2000曲。『学生時代』、『爪』のような名曲も多い。

 65年、10歳年上の俳優、根上淳さんと結婚。68年に長男の森英児さんを授かる。98年に根上さんが糖尿病が原因の脳梗塞で倒れると、2005年に82歳で亡くなるまで、長男の助けも借りながら自宅で介護を続けた。

 長男は陶芸家。自閉症であることをペギーさんはテレビ番組で語っていたが、ペギーさんと一緒に取材に応じたりもしていた。

「コンサートで御子息の陶芸作品を展示していることもありました」(瀬川さん)

 07年には女性で初めて日本歌手協会の会長に就任。

「大御所なのに威張ることなどなく、律義で人望があった。達筆なお手紙をいただき恐縮したこともあります」(音楽評論家の反畑誠一さん)

 4月9日にはイベントのリハーサルで元気な姿を見せていた。翌10日に体調を崩し、肺炎と診断され入院。

 急速に容体が悪化して、長男らに見守られ、12日に83歳で逝去。

 葬儀は先立った夫の菩提寺で、身内だけで営まれた。

「歳を取れば取るほどジャズの難しい曲に挑戦していたのです。ハードルの高さを自分で上げていく気丈な人でした」(安倍さん)

週刊新潮 2017年4月27日号掲載

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