データ改竄で揺れる神戸製鋼所に“コネ入社”していた「安倍晋三首相」

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活躍のニューヨーク、苦労の加古川

 入社決定まで時間がかかったため、正社員として採用させることが不可能となる。そのため最初は「嘱託」として79年、ニューヨーク事務所に配属される。事務所側は「代議士の息子なんて……冗談じゃないよ」と反対する声が多数だったというが、安倍首相本人が現れると下馬評は一変した。当時の管理職が言う。

《スーッと現れ、我々の目の前に立った安倍君は、えらく優男で、シャイで、そして全然代議士の息子らしくない風貌と態度でした。悪く言えば、いかにも線が細いお坊ちゃんという感じだった。それで皆アレッていう感じで、「この人ほんとに将来代議士になるんかな」と心配したぐらいです》

 たちまち「非常に謙虚な好青年」との評価が下った。職場での日常は、以下のようなものだったという。

《技術・営業部門駐在員の出張など各種費用の計算から、会計士との折衝、出張の同行、日本からの客の送迎運転までなんでも屋・便利屋的なものだった。アフターファイブになると、独り身の晋三は、何かにつけ、「おい、アベちゃん、行くか」と麻雀、カラオケなどに誘われた》

 翌80年、安倍首相は正社員として神戸製鋼所に入社する。配属先は兵庫県加古川市の神戸製鋼加古川製鉄所だった。だが、ここでは人間関係に苦労したようだ。

《成蹊大学時代の同級生たちは、たまの休みで上京した晋三がふと漏らした本音に、相当追いつめられていることを感じたという(略)同級生たちの前で、「工場勤めも結構いろいろあって難しいんだよなあ」「現場のおやじさんなんかと心を通じるって大変なんだ」とこぼした。慣れない住環境と現場での人間関係でストレスがたまり、腸の先天的な弱さも重なって次第に晋三は体調を崩していく》

 同僚の記憶によると、1980年の夏ごろ、安倍首相は療養を理由に東京に帰ったという。加古川に戻ってきたのは秋口で、数カ月後の81年2月には東京本社へ配属となった。

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