「女子力」も使っちゃダメ? アメリカでも賛否両論「ポリティカル・コレクトネス」とは

社会2017年8月24日掲載

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「女子力」は差別

 ポリティカル・コレクトネス(PC)という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは、20世紀半ばから使われ出した言葉で、人種や民族、宗教や性別、さらには性的指向まで、いかなる観点からみても差別や偏見を含まない態度のことをいう。とりわけ用語や表現の面で注意が求められ、1970年代にはフェミニズムと結びつき、「看護婦」を「看護師」、「スチュワーデス」を「キャビンアテンダント」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」など、性別を感じさせる呼び名から、中立的な言葉に改められた。

 現在日本のメディアに跋扈している「女子力」という言葉。女子力とは、身だしなみや、振る舞いなどが、慎ましかったり優しかったり家庭的であったりと、いわゆる女性に期待される“男性目線の能力”のことを指し、女子の評価の高低を表する言葉だ。この言葉、日本では当たり前のように使われているが、「リベラル」先進国のアメリカならばグレーゾーンを飛び超えて一発でアウト。

 そう指摘するのは、元財務官僚で昨年アメリカのハーバード・ロースクールを卒業した山口真由さんである。

 山口さんの友人で、ハーバード大准教授の女性は「『女子力がない』なんていう上司、アメリカなら即クビよ」と切り捨てたという。彼女によると、アメリカの知識人は、「男は」「女は」という発言の時点で、頭の中で警報が鳴るというのだ。それに比べると日本のPCに対する真剣度はまだまだ低く、今後の課題であると言える。

 しかし、PCが高すぎるアメリカでは、差別的用語や言動にあまりに過敏なケースも溢れており、それもまた考えものであると、山口さんは著書『リベラルという病』で論じている。以下、同書を抜粋、引用しながら、現在のPC事情をご紹介してみよう。

「おネエ」もNG

 まずは、PCに鈍感すぎる日本人の悪い例から。

 メディカルスクールに留学している何人かの日本人にアメリカ人を交えて、雑談していたときのこと。日本人の男子学生が、冗談のノリでこう言った。

「同じクラスのベルギー人が、やたらと僕に親切なんだよね。でさ、友だちから聞いたところによると、そいつゲイなんだって。いやぁ、俺、気をつけなきゃね」

 場が凍りついた。アメリカ人たちの顔が一気にひきつっていく。

「おネエ系」とか「おカマ」とか、日本では揶揄するかのようなコメディタッチで語られることが多いセクシャリティだが、海外に出た場合には、相当程度気をつけたほうがいい。こういうタイプのジョークはウケないどころか、反感を買いうる。

 セクシャリティは人格の根幹に関わることだから、冗談のネタにするのは好ましくないし、たとえ同性を恋愛対象としていたとしても、彼/彼女らが性に奔放で見境がないかのような表現は明らかな侮辱であると、山口さんは指摘する。アメリカでは、このような下等なジョークを口にする人間は、知性がないと判断されてしまうという。おそらく日本のほとんどのバラエティ番組でのLGBTの扱いは「アウト」となる。

 次にどちらともいえない中間の例をみてみよう。これも山口さんが実際に目の当たりにした例である。

「女性に優しく」もNG

 ハーバード・ロースクールの交渉術のクラスで、中国人の男子学生がアメリカ人の女子学生と交渉の練習をしていた。男子学生は講師から「あえて強面の交渉相手として交渉するように」と指示されていたため、女子学生を相手に威圧的な調子で交渉を続けた。

 その練習後、講師から感想を尋ねられた彼は、「申し訳なかった」と答えたという。理由は、相手チームは「女性1人だから」というものだった。

 特段問題がある発言には思えないが、その言葉にクラスが一瞬でシーンと静まりかえったという。そして、女性の講師もそれまでとは打って変わったトゲのある調子で「それ、どういう意味?」と彼に尋ね、男子学生が「相手チームは女性で、女性を守ってあげずに攻撃するというのは、やっぱり申し訳なかったと思う」と答えた瞬間、相対していた交渉相手の女子学生は顔を真っ赤にして抗議した。

「つまり、あなたは、私が『女性』だという理由だけで、私への交渉態度を変えるべきだったっていうの?」

 中国人学生の言動に悪意がないことは、山口さんには容易に理解できたというが、それ以降その男子学生は「性差別主義者」というレッテルを貼られてしまったという。アメリカのPC意識の高い地域では、この手の「レディ・ファースト」すら女性差別になってしまうのだ。

「オリエンタル」もNG

 LGBTを揶揄すること、あるいは女性を男性よりも能力の低い者として扱うことが、「政治的に正しくない」という考え方はまだ日本人にも理解できるかもしれない(共感できるかどうかは別だが)。

 しかし、最後に、およそ理解できない、過敏と思える例を紹介しよう。

 2015年、着物を着たモネの妻を描いた「日本娘」の所蔵で知られるボストン美術館が、来場者に着物を貸し出して「日本娘」の前で写真を撮らせるキャンペーンを実施した。着物に触れることで、日本文化に触れる経験をしてもらうのが狙いだった。

 ところが、アメリカに暮らすアジア系はこの試みが人種差別だと声を上げたのだ。着物を強調すること自体が「オリエンタル」というステレオタイプな観点から日本を理解しようとすることだと抗議し、抗議団体はプラカードを掲げて「日本娘」の前に陣取り一触即発の事態に。最終的には美術館が謝罪することで決着したというが、この過敏さには、当の日本人である山口さんすら、ぽかんとしてしまったという。

 人種差別はもちろん、男女差別や、セクシャルマイノリティへの差別など、持って生まれたその人それぞれの個性を揶揄したり攻撃したり指摘したりすることは良くないと、大方の人が思っているだろう。しかし、その思想も行きすぎると、思わず「?」と首を傾げたくなるような事態を生みかねない。

『リベラルという病』のなかで山口さんは、「弱きを助け、強きを挫く」というリベラルの持つ理想には賛同しつつも、それをそのまま日本に持ち込むことについては、違和感を示している。

デイリー新潮編集部