“再建王”坪内寿夫 柴田錬三郎のためにゴルフ場を造成

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一人のためだけのゴルフ場

 死と隣り合わせの極寒のシベリアから帰国したのは昭和23年秋。実家は網元だったが、父親が大坪座という、芝居や映画を見せる小屋を経営し繁盛していた。坪内はそれを引き継ぎ、映画の「二本立て」という見せ方を日本で初めて導入し、連日満員に。四国に40館近い映画館を持つに至り、年商3億円とも言われた。

 それでも来島船渠再建に挑んだのは、“映画興行は一段下に見られる。実業をしたかった”から。ここでもアイデアマンぶりを発揮する。資金力のない地元船主用に、小型の同型鋼鉄船を大量製造してコストを下げ、さらに月賦販売制度を導入し、多くの注文をとった。

 観光開発にも進出。奥道後にホテルや温泉などを建設しレジャーランドにした。

「誰が何をしたら喜ぶかが全部、頭に入っていました。その最たるものは、柴田錬三郎さんのために造ったゴルフコースです」(一色氏)

 柴田が坪内のもとを訪ねてきても、わずか数日で帰京してしまう。寂しがり屋の坪内は、柴田が「ゴルフ場があったら……」と話したのを受け、美しい瀬戸内の海を見下ろす奥道後の山々を切り拓いた。柴田一人だけのために、本当に「奥道後ゴルフクラブ」を造成してしまったのである。

 政財界に限らず坪内ファンがいたが、プロゴルファーの青木功氏もその一人だ。

「坪内さんにお会いしたのは昭和57年の秋。僕の調子が上がらないと知った彼はこんな話をしてくれた。“経営もゴルフも良い時もあれば悪い時もある。だからこそ悪い時は苦労しなさい。それをバネにすれば必ず良いことが待っている”と。それでもう一度しっかりトレーニングしようと思い準備したら、翌年のハワイアンオープンとヨーロッパオープンで優勝できた。以来、僕は坪内さんを『オヤジ』と呼び、彼も息子のように可愛がってくれました」

 しかし豪放磊落(らいらく)の坪内にも逢魔が時が忍び寄っていた。造船不況と円高の直撃に呻吟し、昭和59年、屋台骨の来島どっくが経営危機に直面する。同年暮れには脳梗塞が追い打ちをかけた。借金を整理するため、彼は会社など全財産を失った。

 住まいは南松山病院の特別院長室となった。土日診療で住民の役に立ちたいとした尾崎光泰理事長の想いを応援するため8億を融資した経緯もあった。金融機関と交渉し借財はなくなり、ホテル奥道後と奥道後ゴルフクラブを買い戻した。

 尾崎理事長が振り返る。

「坪内さんのもとには、東京から中曽根康弘元総理、竹下登元総理など大物政治家も訪れた。最後まで日本の政治、経済を憂えていました」

 平成11年(1999)12月28日、坪内は右手を握るスミコ夫人に「世話になったの、ありがとう」と告げ息を引き取った。享年85。通夜には青木功氏も駆けつけ受付を買って出た。

 スミコ夫人も平成25年(2013)に亡くなるが、一色氏に、最後までこう話していたという。

「一度でいいから新しい家に住みたかった」

 島地氏は、坪内の生き方を振り返るとき、アンリ・ド・レニエの詩を思い出す。

「“まことの賢人とは砂上に家を建つる人なり”と。つまり人生とは砂の上に家を建てるように、努力が報われるとは言えないもの。それでも全力を注ぐことからしか人生の真実は見えてこない。その真実を坪内さんは分かっていたと思う」

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「20世紀最後の真実 伝説となった『偉人』『怪人』列伝」より

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