沢口靖子は音痴、斉藤由貴は補欠…伝説のマネが明かす「東宝シンデレラ」秘話

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沢口靖子は「眼」で

 タイミングが良かったのは、1982年、東宝本社の松岡功社長(スポーツキャスター・松岡修造氏の父)が東宝芸能の社長を兼任するようになり、陣頭指揮でハッパを掛けてくれたことが大きかった。私はといえば、地方巡業を担当する企画営業部から俳優部に異動し、マネージャーとして高島忠夫などの担当をしていた頃。そこに始まったのが、このオーディションです。

 東宝シンデレラオーディションは第1回が1984年、しかし、意気込みはあっても、当時の東宝芸能の俳優部は10人ほどの弱小部署。自前で大規模なオーディションをやるには力が足りません。告知は映画の合間にCMを流したり直営館にポスターを貼るなど、本社の宣伝部から知恵と人を借りて始めたというのが実情です。

 告知をすると「東宝」の名前もあって、全国から3万人以上の応募が集まりました。審査は履歴書と全身写真、そして歌などを録音したカセットテープを送ってもらい、書類選考を経て最終面接というシンプルなものです。何といってもスタッフが少ないものですから、全員総出で1人あたり数千通の書類を読み込んでゆくのです。3万人以上の応募者たちの中からどうやって将来のスターを選ぶのか、これは至難のテーマです。

 後輩には「自分がマネジメントしたい娘を選べ」と言いましたが、私は写真の顔の下半分を手で覆い、「眼」で選ぶようにしました。顔はいくらでも綺麗に撮れる。しかし、眼が訴えてくるものはごまかせません。沢口靖子はまさに、そんな「眼」の力で選んだ娘です。

 まだ、大阪府立泉陽高校の学生だった彼女は大阪・堺市の出身。兄弟が1人いるスポーツ少女でしたが、当時の仲間に聞いても、書類選考の段階から皆が気になっていた。最終面接は25人。砧スタジオの会場で選ぶのですが、「やっぱり沢口だよな」と誰もが言うのです。徒手空拳でオーディションをやったら、いきなり、シンデレラを見つけてしまったわけです。

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