日本人スプリンターを高速化した「カール・ルイス」走法――阿江通良(元日本陸連科学委員会委員長)

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バルセロナ五輪のカール・ルイス

 陸上競技の華、男子100メートル。日本人には縁遠い種目だったが、今は違う。来るリオ五輪では、日本人初の“決勝進出”そして“9秒台”が実現するかもしれない。長年、陸上短距離の研究と指導に尽力してきた阿江通良筑波大名誉教授が、その進化の舞台裏を明かす。

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 いま100メートルを10秒10以内で走ることができる日本人は4人いる。

 桐生祥秀(20)、山縣(やまがた)亮太(24)、高瀬慧(けい)(27)、そしてケンブリッジ飛鳥(23)。それぞれの自己ベストは、10秒01、10秒06、10秒09、10秒10。今夏開催されるリオデジャネイロオリンピックでは、200メートルに専念する高瀬を除く3人が100メートルにエントリーしている。

「1人や2人いるのは珍しくありませんが、黒人以外で1カ国にこれだけの選手が集まっている国はそうありません。今の日本は凄いんです」

 と語るのは、阿江通良(あえみちよし)筑波大学名誉教授。1990年から日本陸上競技連盟科学委員会の委員を、96年から2010年まで同委員長を務めあげた、陸上界の生き証人である。

 阿江氏曰く、いまをときめく日本陸上短距離界の“スタート地点”は1990年だった。

「選手の体の動きを精密に計測して研究する『スポーツバイオメカニクス』が初めて実践されたのは、87年世界陸上ローマ大会で、ヨーロッパ各国が合同で取り組みました。

 日本が初めて本格的にスポーツバイオメカニクスの計測を行ったのは、91年の世界陸上東京大会。その準備のために、90年から陸連科学委員会が本格始動したのです。日本選手のスプリント力強化をめざして『日本スプリント学会』が設立されたのもこの年でした。

 撮影などで経費は3000万円を超えましたが、全て陸連から拠出されました。いま思えば、先見の明のある投資でした」

 大会では、種目によって撮影ポイントが変わり、延べ70台のビデオカメラが稼働した。

「高速度カメラで撮影し、100分の1秒ごとに腕や脚の位置を手作業でキャプチャーしていきます。

 このようなノウハウを持っている国は、近年でも限られており、例えば2011年に韓国で開催された世界陸上では、我々日本のチームが協力して計測を行いました。欧米の大会では、計測したチームがデータを提供してくれるので助かります。もっとも、どの国際大会でもデータが得られるわけではなく、たとえばロシアや中国で行われる大会では、彼ら自身が計測しているようですが、得られたデータはあまり提供してくれません」

 話を91年大会に戻す。

「我々は幸運でした。というのも、準備万端で臨んだこの大会の男子100メートル決勝で、カール・ルイスが9秒86の世界新記録を樹立したのです」

 8月25日午後7時。それは、人類が初めて“9秒8台”で走った瞬間でもあった。ルイス以外にも7人中5人が9秒台で、うち3選手が出身国の国内新記録樹立という好レースだったが、実はこのレース、舞台裏ではちょっとした奇跡が起こっていた。

「旧国立競技場の100メートルコースは、向かい風が吹きやすいことで有名でした。実際、2日後に行われた女子決勝では3メートルの向かい風が吹いています。

 ところが、この日の男子決勝は違いました。スタート時間の少し前にさっと雨が降って低気圧が抜け、風向きが変わったのです。

 風は、レース前に測ることはできません。測れるのはレース開始後で、スタートしてからの10秒間の平均値を求めます。競技場の風向きはめまぐるしく変化しますが、いい風が吹いたときにスタートするということはできない。つまり、完全な運任せなのです。

 このレースのときの風は、追い風1・2メートルでした。2メートル以上だと公式記録と認められませんので、絶妙の風が吹いたと言えます。気温25度、湿度57%というのも、選手たちにとってほどよい快適さでした」

■“腿上げ”は誤り

 では本題。この91年東京大会で計測されたルイスらの走りについて、解説していただこう。

「走る速度は、ストライド(1歩の長さ)とピッチ(1秒間の歩数)の掛け算で決まります。ただ、スタートからゴールまで同じ速度というわけではありませんし、ストライドやピッチにも変化があります」

【図A】ルイスとリロイ・バレルのデータ

「図Aは、このレースでのルイスと、9秒88で2位になったリロイ・バレルのデータです。上段の速度変化に大きな差はないように見えますが、下段を比較するとストライドとピッチの線形はだいぶ違います。バレルのピッチはピークからなだらかに減少していくのに対し、ルイスのそれは上がり下がりを繰り返しています。これは、どちらかが正しいというものではなく、選手の個性と言うべきもの。これがうまくいくと、いわゆる“自分の走りができた”と言えるわけです。

 次に、フォームについて説明しましょう」

【図B】①従来“良い”とされていたフォーム ②ルイスのフォーム(伊藤ほか,1994)

「図B①は、従来“良い”とされていたフォームです。前に出した脚の腿(もも)はしっかり上げて、後ろの脚は足首・膝(ひざ)とも伸びきっています。ところが、驚くべきことに、ルイスのフォーム(図B②)はこれとは全く違っていました。腿はそれほど高く上がっておらず、足首や膝も曲がったままで、次の動作に進んでいたのです。

 つまり、“腿を上げろ”“足首、膝を伸ばせ”という従来の指導法は誤りだったのです」

 それにしても、なぜ“腿上げ”“膝伸ばし”がスピードダウンにつながるのか。素人目にも疑問に感じざるを得ないが、メカニズムはこうだ。

「伊藤章・大阪体育大学教授(当時)らのグループはこのように説明しています」

【図C】①膝を伸ばすキック動作 ②膝を固定したルイス型のキック動作(伊藤ほか,1994)

「股関節を同じ角度だけ動かす場合、膝を伸ばすキック動作(図C①)より、膝を固定したルイス型のキック動作(図C②)の方が脚が大きく後ろへ動く。言い換えると、膝の屈伸は進行方向とは向きの違う動きになるため、速度を下げる要因になっているのです。

 走るという動作は、足が着地してブレーキがかかり、そこから加速する、という“減速”“加速”の繰り返しです。

 後者の動作をしているルイスの走りは、着地時のブレーキ力が少ない。だから、加速力も少なくて済む。“筋肉のエネルギー蓄積は10秒ももたない”つまり“100メートルをフルエネルギーで走りきることはできない”と言われていましたが、ルイスのような“省エネ走行”なら可能だったのです。

 ちなみに、前者の動きは、陸上短距離のみならず、スピードスケートやスキージャンプ競技など他の競技でも、今では『良くない』とされています」

■ルイス走法で日本新

 人によっては少しわかりにくかったかもしれない。そこで、別の角度からも説明していただいた。

【図D】ランニングの際の2つの基本的な運動

「ランニングの際の下肢の動きをみると、屈伸つまり上下のピストン系の動きと、股関節を軸とした振り子のような前後のスイング系の動きという2つの基本的な運動によって構成されています(図D)。従来の走法はピストン系の動きを重視していました。しかし、ルイスの走法は、脚全体を股関節を使って振るイメージ、つまりスイング系の動きが原動力となっていたのです。

 ルイスの四肢は、筋肉隆々ではなく、いたって華奢でしたよね。それはピストン系運動をあまり必要としていないからです。代わりに、股関節の動きが不可欠なため、お尻がとても大きかった」

 この研究結果は92年1月、各県の指導者が集う陸連コーチ研修会で発表された。

「反応は、“きちんと測ったのか”“今までの指導法が間違いだというのか”という疑問と非難の嵐。浸透するのには数年を要しました。

 余談ですが、伊藤先生がこの研究をしている際、こんなことがありました。既に引退していた北田敏恵さんという元陸上選手にも協力してもらっていたのですが、彼女は、この研究で明らかになった走法をマスターし、現役復帰して、当時の女子100メートルの日本記録を塗り替えてしまいました」

 その後、日本陸連科学委員会は新しい走法、いわば“ルイス走法”を日本人スプリンターたちに伝道していった。

 そして1998年12月13日、バンコクで開催されたアジア大会100メートル準決勝で、伊東浩司が10秒00の日本新記録を達成。この記録は、17年を経た今なお破られていない。

「伊東君の走りは、ルイス走法そのものでした。彼曰く、『足の裏を地面に置くイメージ』とのこと。2003年世界陸上パリ大会男子200メートルで銅メダルを獲得した末續(すえつぐ)慎吾君も、ルイス型の走法でした。末續君は、『前に乗っていく、前傾していくイメージ』と語っていましたね。

 この走法を身につける練習法としては、トーイングマシンという機械で1~2キロの力でゴール側からロープで引っ張ってもらうのがポピュラーです。マシンがない場合は、下り坂を使うのも効果的です」

■桐生もケンブリッジも

 小学生の子を持つ親なら、早速この理論を子供に伝授して、運動会で一等賞を狙いたいところだろう。だが、そうは問屋が卸さない。

「小学生は股関節周りの筋肉が未発達なので、ルイス走法はできません。事実、足の遅い子ほど腿が下がっています。なので、“腿上げ”は必ずしも間違いではないのです。もっとも、腿を上げれば速くなるというわけではないのも確かですが。

 それに、運動会の徒競走は50メートルとか短い距離を走りますよね。その場合は、ピストン系の走法の方が速く走れるのです。イチロー選手のベースランニングを見ると、膝が伸びきっていますが、それはそれで理にかなっているのです。いま話題のオコエ(瑠偉)選手も然り。ただ、彼らが100メートルを走ったら速いかというとそれはそうとも限らない。10~50メートル程度のダッシュと、100メートル走とは、理想の走法が全く異なるのです。

 つまるところ、人間の自然な走り方というのはルイス走法だと思います。足が速い日本の子供たちの多くも、ルイスと同じような走り方だったのかもしれないのです。でも、かつての日本の指導者は、より速く走らせようとそれを矯正してしまっていた。アメリカの指導者は大雑把というか、速ければそのままにしておくんですね。日本も、もともと速い子はほったらかしておけばいいのです」

 そろそろ紙数が尽きるところで、いま我々が最も知りたい質問を。現在“日本人初の9秒台”が期待される面々の走りはどうなのか。

「桐生君のフォームを見ると、腿が上がり過ぎていますね。ケンブリッジ君の場合は、膝が伸びきっている。山縣君も、ルイスや伊東君のフォームにはまだなっていません。ただ、逆に言うと、彼らはいずれもまだ伸びしろがある、と言えます。9秒台は、91年世界陸上東京大会のように、条件さえ整えば、いずれ達成されるでしょう」

「実は、腰や足首の使い方など、彼らにまだ伝授しきれていないことがあるんです」と阿江氏。

 四半世紀を要した研究と実践──その成果が結実するのは、かの地ブラジルか。はたまた……。

「特別読物 日本人スプリンターを高速化した『カール・ルイス』走法――阿江通良(元日本陸連科学委員会委員長)」より

阿江通良(あえ・みちよし)
1951年兵庫県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。大学時代は走り高跳び全国学生3位。同大体育科学系教授、体育専門学郡長、副学長を経て、現在名誉教授。著書に『スポーツバイオメカニクス20講』など。

週刊新潮 2016年8月4日号掲載

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