寄る年波に心が折れて「ジャック・マイヨール」の武士道

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 フリーダイビングの世界記録に挑むダイバーたちの姿を描いた、映画『グラン・ブルー』(1988年公開)は日本でも大ヒットを記録した。その後、主人公のモデルであるジャック・マイヨールは「人類はイルカや鯨に学び、海への愛を深めるべき」と訴えた。が、74歳の時に自ら命を絶った。

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ジャック・マイヨール氏

 マイヨールは、76年に世界で初めて素潜りによる深度100メートルを達成した。彼が命を絶ったのは25年後の01年12月23日。イタリア西岸とコルシカ島の間の地中海に浮かぶ、エルバ島の自宅で首を吊ったのだ。

「ジャックは日本に来ると、僕が用意した古民家に滞在していました。居心地が良かったみたいで、長い時は数週間から1カ月ほど滞在してね。『ジャックス・プレイス』と名付けて、囲炉裏を囲んで語り合ったなあ」

 と、32年に亘ってマイヨールと親交を持った、千葉県館山市でダイビングスクール「シークロップ」を経営する成田均氏(68)は振り返る。

「彼が死んだと聞いた時は、侍みたいと言うか、自分なりの武士道精神を全うしたんだって思った。彼は日本の禅や武士道に強い関心を持っていたからです。生前、“心を空っぽにして何も考えないことが潜水の極意だ”と言ってたけど、それは禅で言う“無の境地”だったと思うね」

 マイヨールが武士道や禅に目覚めたのは、幼少期の経験がきっかけだった。

「父親が上海で建築技師をしていた関係で、子どもの頃から日本にはよく来ていたそうです。イルカとの出会いは10歳の時で、佐賀県唐津市の七つ釜の海で泳いでいた時に3頭のイルカと一緒に遊んだと聞きました。そのせいか、有名になった後も日本に来ては、座禅を組んだり本を読んだり、熱心に勉強してました」

 哲学者の梅原猛氏はかつて、日本人の価値観は「真善美」にあると指摘した。

「ジャックは最も『美』に重きを置いた武士の死生観に近い感覚を持っていたと思う。醜い姿を世界に晒すくらいなら、いっそ美しく死んでしまおうって思ったのかもしれないな」

 かつてマイヨールと交際していた日本人女性も言う。

「晩年、ジャックは“思うように身体が動かないのが悲しい”とか“悔しい”と繰り返し口にしていました。肉体が年齢とともに衰えていく現実を受け入れられなかったのだと思います」

■契約の失敗

 成田氏によると、マイヨールは以前から、“死の予感”を見せていたという。

「00年頃、イタリアで『Homo Delphinus』というジャックの半生や思想を記録した本が出版されたんです。そこには彼が“ピミニ”と“ストライプ”と名付けた2頭のイルカと海中を泳いでいる写真があって、ある時、ジャックはそれを見ながら“俺の身体はこんなに醜いのか……”“こんな姿は見たくない”と悲しそうにこぼしていたんだよね」

 映画の公開からすでに10年以上が過ぎていたが、

「ハリウッドスターみたいに、世界中に名前と顔が知られていたからなあ。きっと、いつまでも格好良い姿でいたかったんでしょう」

「老い」への恐怖を、マイヨールは人一倍感じていたのではないか、というのだ。

 もっとも、マイヨールは死の数年前からうつ病の兆候を見せていた。いまもエルバ島で暮らす、親しい友人のアルフレッド・グリエルミ氏が指摘する。

「ジャックは映画会社と契約する時、日本円で約200万円が支払われる『1回限りの固定額の支払い』を選んだんだ。ところがその後、映画は世界的に大ヒット。興行成績に応じた『歩合での支払い』で契約していたら、ジャックの元にはその1000倍以上の報酬が転がり込んだはずだった。この失敗がもとで、彼の精神は少しずつ不安定になったんだ」

 加齢による衰えと、巨万の富を手にする千載一遇の好機を逃した後悔――。先の成田氏が後を引き取る。

「俺もうつのことは感じてた。ジャックと電話で話すと“死にたい”とか、そんなことばっかり言ってたからね。だから死ぬ2、3週間前には“ジャックよ、お前さんは日本のサムライが好きなんだろ? わざわざ人に死ぬ死ぬと吹聴するサムライなんていないよ”って言ったんだ。でも、やっぱり気になって“もしお前さんが死んだりしたら、日本のファンだって悲しむんだよ”って励ましていたんだけどなあ……」

 生涯を賭けて紺碧と無音の深海に挑み続けたマイヨールにも、武士道精神の神髄はあまりに深かった。

「特別ワイド 迷宮60年の最終判決」より

週刊新潮 2016年3月10日号掲載

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