バブル崩壊から生還した「渡辺喜太郎」奈落のジェットコースター

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 人も金も狂奔させたバブル経済は、正確には51カ月続いたとされている。日本人がニューヨークやハワイのホテルを次々買い漁り、暴騰する国内の土地も永遠に値上がりするかに見えた。不動産会社「麻布建物」を率いた渡辺喜太郎氏(82)は、まさに、そんな時代を象徴する1人。だが、甘い夢が醒めた時ほど、現実は人に過酷なものだ。その時、渡辺氏が見たものは――。

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バブル崩壊を生きのびた渡辺喜太郎氏(82)

 1990年早春、東京・麻布十番に建ったばかりの商業ビル「ジュールA」では、盛大な竣工パーティーが催されていた。続々と訪れる政治家、官僚、そして銀行のトップを、満面の笑みで迎える渡辺氏。

 戦災孤児から身を興し、オートバイの販売から自動車、そして不動産と手を広げてきた渡辺氏は、雑誌「フォーブス」でも世界で6番目の富豪(資産55億ドル)として紹介され、まさに人生の絶頂期を迎えていた。

 その渡辺氏が振り返る。

「私にとっては創業の地・麻布十番にジュールAを建てることが念願でした。ビルは交差点に面していて最高の立地、地下鉄・麻布十番駅とも直接つながっているんです。実は麻布十番駅を誘致したのも私。計画の何年も前から大蔵省(現財務省)に出向いて陳情していたんですが“そこに地下鉄は通らない”と相手にされない。そこで、大野明さん(元運輸大臣)に、自民党幹事長の斎藤邦吉さん(当時)を紹介してもらい、陳情に伺った。斎藤さんは、その場で運輸省に“駅はどうなった?”と電話を掛けてくれて、すぐに、駅の設置が決まったのです。与党幹事長の力とはすごいものだと思ったね」

 この話にはおまけがある。以前、渡辺氏は大野氏から「尖閣諸島に灯台を作るのを手伝ってくれないか」と密かに頼まれていた。意外な要求に渡辺氏は面食らったが、私費で鉄柱を作らせ民族団体に寄付。後に尖閣に上陸し、灯台を建てたのはご存じのとおりだ。渡辺氏は大野氏から大いに感謝され、付き合いが深まったという。言うなれば、麻布十番の駅は、灯台建設の見返りのようなものだったと渡辺氏は振り返る。

 ところが、パーティーの席で渡辺氏は信じがたい言葉を耳にする。

■早く処分したほうがいい

「渡辺さん、政府は土地の値段を半分にするつもりだよ。悪いこと言わないから早く処分したほうがいい」

 そう囁いたのは当時の国土庁事務次官である。

「もうビックリしてね。会場にいた銀行の頭取や、他の出席者にも聞いて回ったのです。でも、誰も知らない。ところが数日後に、結婚式でご一緒した野田毅さん(前自民党税調会長)に聞いたら、その通りだという。いったん土地の価格を半分にするけれど、その後は毎年5%ずつ上げて景気を回復させるプランが進んでいるという訳です。そのことを渡辺美智雄さんに聞いたら“そんなことをしたら日本が潰れてしまうじゃねえか”って怒ってましたけどね」

 渡辺氏は慌てたが、160棟以上ものビルや土地を一気に処分できるものではない。同年3月、大蔵省は不動産融資に対する「総量規制」を発表する。地価は音を立てるように崩れ出した。

「会社は銀行の管理下に置かれ、私は名前だけの会長に祭り上げられました。そして、97年6月、東京地検に逮捕される。従業員の給料を払うため、別会社を作ってそこにビルの家賃を振り込ませたことが強制執行妨害だとされたのです」

 裁判では執行猶予になったが、01年にまた強制執行妨害で逮捕、渡辺氏は再び有罪判決を受けてしまう。ようやく活動を再開したのは執行猶予が取れた2010年になってからである。

「それでも、15棟ほどのビルは、子供たちの手によって残せました。今は家賃収入もそこそこあるしね」

“バブル紳士”と言われた人たちの中では奇跡的に生き延びた1人である。

 あの「熱狂の時代」をどう思うかと聞くと、少し考えて、渡辺氏は言う。

「怒られるかもしれないけれど楽しかったよ。あんな経験できないもんね。でも、皆死んでしまった。秀和の小林茂さん、桃源社の佐佐木吉之助さん、三井信託の中島健社長もバブル崩壊の直前に急死してしまった。悲しかったけど、葬式の時に読売新聞の渡辺恒雄さんが“いい時に亡くなったのかも知れない”と言ったのを思い出すよ。その後、皆大変だったんだから」

 降る雪や「バブル」は遠くなりにけり。

「特別ワイド 吉日凶日60年の証言者」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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