哲学者が遺した最後のエッセイ/『哲学散歩』

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 先日、八十五歳で亡くなった哲学者の最後のエッセイ集。行きつ戻りつ、時には寄り道をしながら、ゆったりとした足取りで哲学の先人たちのいた場所を訪ね歩く。

 始まりはプラトンから。〈「ひろし」という渾名で歴史に永く名をとどめる〉という一文にふきだしてしまう。プラトンは本名でなく幅広い(=プラトン)肩からついた渾名だからと、「ひろし」呼ばわり。今後、プラトンは、私の中で永久に「ひろし」として記憶されるだろう。

 親しみのもてるエピソードは単なるおふざけではない。近代以降の西洋の思想的基盤となった、プラトニズムとキリスト教との深い結びつきがテーマとして著者の念頭にあり、プラトン自身、ユダヤ思想と接触があったのでは、という仮説を持っている。そうした流れの中で「ひろし」が飛び出してくる。

「受け売り」という言葉が文中、何度も出てくる。著者の専門はハイデガーを中心とするドイツ現代思想なので、プラトンやアリストテレス、あるいはデカルト、カントについて書くのは専門外、という抑制的な意識が働いてのことだ。

 とはいうものの、ハイデガーを研究するには先人にあたる哲学者の仕事を幅広く読む必要があるわけで、そうした長年の蓄積のうえにそれぞれの専門家の最新の研究にも目を配り、平易な言葉に置き換えてそのエッセンスを紹介している。読者にとっては願ってもない、上等な「受け売り」なのである。

 ミステリー好きでもある著者の筆にかかると、何百年も前の哲学者たちが、かび臭い図書館の扉の奥から人間の姿をして現れる。ライヴァル関係の中で成長し、世界史を二分するような対立構造に発展したり、女性に苦しめられ、女性が原因で命を落としたりした哲学者の姿を知ると、哲学とは手の届かないガラスケースに入った学問ではなく、存在とは何かをつきつめて考える、連綿と続いてきた人間のいとなみであることに思いいたる。

 著者の専門であるハイデガーは何度となく登場、そのつど性格の悪さが語られる。ライヴァル、ヤスパース邸への訪問場面は、太宰治の『親友交歓』にたとえられている。性格の悪さに困惑しながら、そのことが彼の思想の魅力をいささかも減じない、というのも興味深いことだ。

 登場する人物が現代に近づくにつれ、この楽しい散歩も終わりに近づいてきたと感じさせられる。最後の章で取り上げられるのはハイデガーの最初期の弟子レーヴィットで、著者は若いころ東北大学で、レーヴィットの集中講義を受けたことがあるそうだ。手から手に渡されるリレーのたすきのように哲学の歴史を語り終えて、「木田先生」はひとり哲学の森の奥へと去ってしまった。

[評者]佐久間文子(文芸ジャーナリスト)