原爆投下直後ほぼ唯一の記録/『ナガサキの原爆を撮った男』

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 戦争末期に日本の各都市が受けた空襲被害の惨状を記録した写真は、じつは意外に少ない。当時、住民自身がカメラを向けたとは防諜上からも考えられず、可能だったとすれば軍や警察の委嘱を受けたカメラマンに限られる。

 彼らの写真も、戦中は「国民の戦意を阻喪させる」、戦後は「米軍戦略爆撃の正当性を失わせる」からと、発表されることはなかった。そのまま行方不明になったものも少なくない。東京空襲だと、警視庁の石川光陽撮影のものが知られるが、国策グラフ雑誌「FRONT」で有名な東方社のカメラマンたちによる六百枚近くにもおよぶ未公開ネガの存在が再確認されたのは、つい先年のこと。広島、長崎の場合も事情は変わらない。

 本書でその生涯がたどられる山端庸介は、陸軍の徴用カメラマンとして原爆投下直後(十日未明)に長崎入りし、スケッチ担当の山田栄二ともども一日かけて各所を歩き、爆心地の様子をふくむ生々しい百カット以上の写真を撮っている。ほとんど唯一の直後の記録だ。もちろん占領期間中の発表は思いもよらず、占領終了を待つかのように昭和二十七年『原爆の長崎』として刊行された。写真史の教科書にも記載がある。

 じつは本書では庸介のほかに父親・山端祥玉の人生も描かれる。この人物が破格で、面白い。祥玉は明治の末年、シンガポールに雄飛し写真店を営むが、志を得ずに帰国。東京で再起をはかる。昭和初年には自動写真現像機を輸入し、ポスター制作など写真業務一般を行う「ジーチーサン」商会を設立。折から軍関係の仕事を得て大成功。一時は、陸軍との関係が深い先述の東方社に対し、海軍に強いジーチーサンといわれたくらいだ。

 戦後になると祥玉は、本邦初のタブロイド版「サン写真新聞」を創刊したり、宮内省に接近したりと、軍に代わる時代の新しい波を必死に捉えようとする。彼の生き方は外向きでパワーに満ち、創業者的で分かりやすい。その点、庸介はジーチーサンの所属カメラマンとしてずっとワザの向上に励む。職人的あるいは二代目タイプといえる。

 長崎をともに歩いた山田によると、画かきは描きたくないところは描かなくてすむが、写真はそうはいかない。すべてを写し出してしまう。無残な死体を写すとき彼はちぎれた新聞紙を拾ってそっと部分を隠したりする。そんな優しさが庸介にはあったという。しかし本書再録の『原爆の長崎』の写真を見る限り、むごたらしさは優しさをはるかに上回る。

 昭和四十一年、十二指腸がんで死去。四十八歳。あるいは放射能の影響もあったか。著者は庸介の孫。祖父ではなく、一箇のカメラマンの生涯を描こうとする態度は好感が持てるが、若い世代だけに軍の用語などにはやや混乱も見られる。

[評者]稲垣真澄(評論家)