なぜ新入社員は毎年「期待ハズれ」なのか――古市憲寿氏が読み解く

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「仕事ができる」「できない」の基準

 企業の採用ページに掲載されるような「社会人」も確かにいるだろう。

 しかし、そのような「社会人」は本当に一部に過ぎない。昨日まで学生だった人々が、入社式で社長のつまらない話を聞いたからといって、急に立派な「社会人」になれるわけではない。多くの「社会人」は別に大した人々ではない。

 たとえば僕はこの数年ほどで、様々な媒体から取材を受ける機会が増えたのだが、今でも高い就職倍率を誇る人気企業であるはずの新聞社や出版社で働く人たちの仕事ぶりに驚かされることが少なくない。

 数式があるから横書きにと指定していた原稿を、無理やり縦書きにしたはいいものの、縦書きと横書きが混じったままになっていて、途中でページを90度回転しないと読めないようなレイアウトのゲラを送ってくる編集者。

 ぜひ話を聞きたいというので取材を受けたら、特に記事の方向性は決まってないと言い、1時間以上軸の定まらないインタビューを受けたにもかかわらず、その後何の連絡もくれない新聞記者。

 こんな愚痴ならいくらでも書くことができる。ついこの間も、僕が話したことをまとめたというゲラが送られてきたのだけど、6ページにわたる文章のほぼすべての文末が「思います」だった。

 こんな適当な仕事ぶりであっても有名企業で「社会人」として働くことができるのだ。換言すれば、この程度の「社会人」ばかりでも多くの会社は成り立っているし、むしろこんな「社会人」たちの手で社会は回っているのである。

 ただ、僕がいま愚痴を書いた「社会人」たちは、仕事が全くできないというわけではないのだろう。なぜならば「仕事」というのは多岐に亘る細かい業務の総称だからだ。

 ある編集者は著者の意見を汲んでゲラを作ることは苦手かも知れないが、酒の席での接待は得意で、調子よく大物著者の原稿を取ってくることには長けているのかも知れない。ある記者は、一期一会のインタビュー相手には適当な態度をとるが、会社内の上司とは良好な関係を築いており、出世の有力株なのかも知れない。

 つまり「仕事ができる」「仕事ができない」というのは、何かの指標に基づいての評価でしかあり得ないということだ。多くの指標において高いパフォーマンスを出す「社会人」もいるだろうが(もちろん逆もいる)、基本的に人は自分が見えている範囲の、自分が知っているものさしで、誰かのことを「仕事ができる」「できない」と判断しているに過ぎない。

■いつの世も新入社員は「使えない」

 毎年のように大人たちの「今年の新入社員は使えない」という嘆きが聞こえてくる。

 たとえば1969年に東京で行われたある新入社員向け研修で、担当講師は次のように語っていた。「最近の若い人たちは一から十まで教えないとついてきてくれない。これも教育ママに育てられてきたせいでしょうか」。(『読売新聞』1969年4月2日朝刊)

 1981年に発刊された池田信一『新入社員』という本では、「いまどきの新入社員は扱いにくい」「まるで手応えがない」「命令された仕事だけは素直にやる」といった当時の大人たちの愚痴が紹介されている。入社式での社長訓示と同様、数十年間変わらずに「今年の新入社員は使えない」という言説が垂れ流されてきたようである。

 新入社員が使えないのは当たり前である。仕事ができないのも当然である。

 なぜならば、「仕事ができる」というのは多くの場合、その人が所属するコミュニティや業界のルールをいかに多く取得できたかということに依存しているためだ。同じ「コミュニケーション能力」といっても、広告代理店がテレビ局相手に行う営業と、編集者が漫画家と行うネタ出しミーティングでは、まるで違う「能力」が必要とされる。

 コピーの取り方、電話応対の仕方、書類のまとめ方でも、会社ごと、下手したら部署ごとにルールは違うかも知れない。スピードや勢い重視なのか、それとも丁寧さが要求されるのか、それとも経費削減が至上命令なのかによって、「正解」は変わってくるだろう。

 さらに雇用の流動性が低いとされる日本の大企業では、日々の業務の中にはマニュアル化できないような暗黙知が多く存在している。その企業独自のルール(とさえもいえない細かな決めごと)は、個別具体的な仕事を通じて学んでいくしかない。そのルールをより多く身につけた人が「仕事ができる」と評価されているにすぎない。

 昨日までは「社会人」ではなかった若者たちだ。「入社式」を迎えたからといって、いきなり「使える」人材になるわけがない。そして「使える」「使えない」というのは、本来はエントリーシートや採用面接で見極められるようなものではない。

 面接や試験で、企業側は学生たちをいくつかの基準で選抜しようとする。しかし、実際の「仕事」は、それよりも遥かに多くの指標で測られるような「能力」や暗黙知がコンビネーションで要求されるものばかりである。

 数回の面接で下手したら一生が決まってしまう採用試験は学生側から見てギャンブルだが、それは企業側から見てもギャンブルなのである。その多分に偶然によって左右される就活という時期を覆い隠し、さも合格者たちがその企業に入ることは必然だったかのように錯覚させるところに「入社式」というイベントの価値はある。

「入社式」という通過儀礼を経た人々は、良くも悪くも自分たちの仲間である。だからこそ、自分たちの独自ルールで「今年の新入社員は使えない」と判断してしまうのだろう。

 しかし、そこでいう「使える」「使えない」という判断は、その企業内でしか通用しないものかも知れない。だから「今年の新入社員は使えない」という嘆きは、たまたまその企業がその若者を「使えない」だけで、彼は別の場所では「使える」人材だという可能性もある。

「若者に活躍して欲しい」と言うけれど

 大学のシンポジウムで、ある大企業のトップとのトークセッションに参加したことがある。その人はしきりに「若者に頑張って欲しい」「我が社でも若手社員を大事にしている」と言っていた。大変結構なことだと思って、「じゃあ意思決定機関に若者は入っているんですね」と聞いたら全くそんなことはなかった。

 大企業の経営陣に若者がいない。意思決定機関にいるのは決まって「おじさん」か「おじいさん」。そんなことは当然と思うかも知れない。しかしなぜ、若者が意思決定機関にいたらいけないのだろうか。

 若者が未熟だから? 確かにそれは一理ある。終身雇用を前提とする企業ならば、その企業の内部事情は在籍年数が長い人のほうが詳しいに決まっている。

 しかし市場という、一つ大きいフィールドで考えてみたらどうだろうか。若者だからといって経営判断ができないとか、ビジネスを成功させられないということは、全くない。たとえばフェイスブックのマーク・ザッカーバーグ。楽天の三木谷浩史。彼らが「成功」したのは一体何歳の時だっただろうか。

 もちろん、誰もがザッカーバーグになれるわけではない。多くの若者は、人脈も経験値も年長者に比べて劣る面が多いことは事実だ。しかしだからといって、年長者だけを登用していればいいということにはならない。

 これは企業の「持続可能性」をどう考えるのかという問題と関わってくる。

 もしも企業が早晩つぶれることを前提にしているなら、若手なんて抜擢どころか採用さえもしなくていい。高齢者同士で高齢者向けのビジネスをしていればいい。

 だけど、企業体に数十年後まで生き残って欲しいならば、原理的には若者をどんどん登用して、彼らをエンパワーメントしていくしか道はない。なぜならば、高齢社員はどんどんリタイアし、若手社員が企業の中枢を担うようになる時が必ず来るからだ。

 若手社員を育てなくても、「即戦力」の中途採用で一定期間はしのげるかも知れない。だけど彼らは「即戦力」だけあって、その企業が魅力的でなくなったら、すぐに他の企業の「即戦力」として転職していくだろう。

 もしも企業の存続を考えるならば、できるだけ優秀な若者を集めて、彼らを自社に合った存在に教育し、生産性を高める必要がある。そして、彼らができるだけ長く自社にいてくれるような制度までを考えなくてはならない。それができなくなった企業は、早晩つぶれていく。

 今書いたようなことは企業の人事に関わっている人なら百も承知かも知れない。

 バブル崩壊後、新入社員の採用を控えた影響で、意思決定の裁量を与えられず、後輩育成のチャンスもなかった「未熟な」30代の社員たちが生まれてきているからだ。しかし、そうした「失敗経験」があるにもかかわらず、今でも業績の悪化を新規採用の抑制でカバーしようとする企業が後を絶たない。確かに短期的にはそれで何とかなる。しかし、そんな戦略は長続きしないだろう。

 若いというだけで人を優秀だと判断するのは間違いだ。しかし、同じ理由で、年齢を重ねているというだけで人を判断するのも危険だろう。ビジネス経験豊富な人材が集まる老舗企業であっても、業績悪化や彼ら自身の不祥事は起こる。ビジネスのセンスにおいて、若者か年長者かというのは、数ある指標の中の一つに過ぎない。

 だから本当に優秀人材がいるならば、若者であろうと誰であろうと、地位ある立場に抜擢するべきだと思うのだが、そこまでの勇気がある企業はなかなかない。

■仕事を任せる勇気がなければ

 では、若手社員をどうやってエンパワーメントしていけばいいのだろうか。一つは、彼らにどんどん仕事を任せてしまうことだと思う。

「責任は俺が取るから好きにやってみろ」と言って、権限と予算を委譲してしまう。いきなり大規模プロジェクトを任せる勇気がないなら、とりあえず小さな仕事でもいいから若手中心でやらせてみたらいい。

 人は責任を与えられると、本気になる。自分が信頼されていると思うと、その信頼をきちんと返そうとする。もし「若手社員に責任感がない」と困っている人がいたら、よくよく観察して欲しい。その若手に果たして裁量が与えられているかどうかを。

 様々な統計によれば、この10年間、若者の「まじめ化」が進行してきたことがわかっている。デートの約束よりも仕事を優先する。フリーターではなくて正社員になりたい。飲みニケーションを嫌がらない。そんな若者が増えている。

 だったら後は簡単だ。若者側は企業の一員になることを求めている。ならば、企業に古くからいる社員側が、彼らの受け入れ体制を作ってあげればいい。

 世代的な特徴を書いておくと、今の20代は「豊かな時代」の落とし子たちだ。両親の多くは持ち家があり、そこそこのストックもある。おじさんからはハングリー精神がないように見えるかも知れない。

 一方で社会に対する関心は高い。仕事を通じて社会貢献をしたいと考える若者は多い。

「お金儲け」を追求するビジネスの世界と一見相性が悪いように見えるかも知れない。

 だけど、そこは説明の仕方だと思う。自分たちの仕事がいかに社会に役立っているかを説明する。ビジネスは誰かを搾取するものではなくて、世の中を幸せにする一つのプロセスだということをきちんと伝えてあげればいい。

 同時に、若者の声を聞きながら、自分たちの企業が本当に時代に適合的かを見直すのもいいかも知れない。組織の欠点はそこに長期間いる人ほど気付きにくいからだ。若手社員の素朴な声には、ビジネスのヒントがたくさん隠れているかも知れない。このように、若者には「使い道」がたくさんある。

「新社会人」の悪口を言うくらいなら、彼らの活用方法をきちんと考えてあげてほしい。しかもそれは、若者のためというよりも、企業のために必要なことなのだから。

デイリー新潮編集部

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