なぜパ・リーグの観客動員数は“セ・リーグに肉薄”するまでに増えたのか? 「地域密着」だけではないセ球団との大きな違い
パ・リーグの試み
観客増に向けていち早く動き出したのはパ・リーグの球団でした。それまでは年末のテレビ特番「プロ野球珍プレー・好プレー」で、毎年のようにガラガラのスタンドが映され、お客さんの行動が面白おかしく扱われていたパ・リーグは、このコラムでも触れたように、あの手この手で観客を増やすための努力を続けていました。
なかなか結果が出ない中、風向きが変わったのが球団の買収とスーパースターの誕生です。1989年、ともに戦前から続く関西の伝統チームである阪急ブレーブスがオリックスに、南海ホークスはダイエーに買収され、それぞれオリックス・ブレーブス、福岡ダイエー・ホークスとなりました。オリックスは1991年には愛称を「ブルーウェーブ」に変更して、球団イメージの一新を図りました。ホークスは当時の親会社で流通の雄・ダイエーの財力を使ってチーム力強化に惜しみなくお金を使うようになりました。
そして1991年のドラフトで、愛工大名電高校の鈴木一朗(53)がオリックスに指名されます。斬新なアイデアで知られる当時の仰木彬監督の後押しもあって、94年シーズンに登録名を「イチロー」に変更すると開幕から活躍し、4月末にはレギュラーとして定着、その後の活躍は私が書くまでもありません。
球団に十分な資金を回せなかった旧親会社から、潤沢な資金を持つ新親会社に経営が変わることで、選手の年俸アップはもちろん、練習環境の改善など、さまざまな効果が生まれました。一方で、新しい親会社はシビアに「結果」を求めます。当時、多角的金融サービス業として急成長のオリックス、流通の巨人として全国に店舗を展開し不動の地位を築いていたダイエー。それぞれ宮内義彦氏(91)、中内功氏というカリスマ経営者の下で、球団がその傘下に入るということは「費用対効果」をきちんと数字で示さなければなりません。
この厳しい現実の中で、球団フロントは「結果」を出さなければならなくなったのです。
競技は違いますが、東海ラジオで名古屋ウィメンズマラソンの解説を長年お願いしている長沼祥吾氏は、ユニクロ女子陸上競技部の監督を務めていました。柳井正社長(当時)から「クイーンズ駅伝(全日本実業団対抗女子駅伝競走大会)でチームを優勝させろ」という命を受けての就任でしたが、最高峰とされるクイーンズ駅伝への出場すら危うかったチームを、予選会であるプリンセス駅伝での常勝チームに育て上げ、クイーンズ駅伝でも上位に入る結果を出しながら、柳井社長に呼び出され「優勝できなかったからクビ」と言い渡されました。
「カリスマ経営者」と言われる人は明確な目標を定め、それを託した者が達成できないと見るや、容赦なく別の担当者を立て、何が何でも目標を達成させることが当たり前なのです。
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