「俺はツネの後見人じゃない…」 岡田武史氏に“見限られた”宮本恒靖会長の窮地 アジア杯延期で「森保続投」も完全に裏目…問われるリーダーシップ
日本サッカー協会(JFA)が大揺れだ。先月28日、岡田武史副会長(70)が2028年3月までの任期途中で突然辞任を発表したのだ。悪名高いFIFAのジャンニ・インファンティノ会長に対する、JFAの宮本恒靖会長(49)の弱腰対応に腹を立てた――これが原因とされているが、実際はそんな単純な話ではない。【前編】では、岡田氏が宮本会長の独断によるA代表「外国人監督招聘案」に不信感を抱いていたことを記した。【後編】では、その不信がさらに増幅した過程を詳述する。この夏、岡田氏が宮本会長に関して語っていた“本音”とは――。
【前後編の後編】
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3人の支え
岡田氏の怒りの背景を知るためには、JFA幹部を巡る人間関係についても知っておく必要があるだろう。
宮本氏がJFAの会長に就任したのは、2024年のこと。誕生には多くのJFA幹部の後押しがあった。事実上、任命したのは田嶋幸三前会長である。同氏は現在JFA名誉会長とともにFIFA、AFCの理事でもある、日本サッカー界の大立者だ。22年3月、田嶋前会長は「会長補佐」というポジションをつくり宮本氏をJFAに呼んだ。そして23年に専務理事に昇格させるなど、自分の後継にするべく引き上げてきたわけだ。
宮本氏は2011年に現役を引退。18年から古巣のJ1・ガンバ大阪からも「幹部候補生」としてトップチームの監督に招聘されたが、4季目の途中で解任された。15歳からガンバのユースチームに所属するクラブにとっては叩き上げの存在だったが、独断で方針を決めるなどしてチームが崩壊したことで、ガンバでは宮本氏の話題はいまもタブーと言われているほど。22年にJFA入りした際、次期会長のポジションはほぼ約束されたのも同然だったが、「監督で成功していない宮本にJFAのトップが務まるはずがない」(代表OB)という声も根強くあった。
しかし、そんな声を抑え込んだのが田嶋体制だ。田嶋氏は就任と同時に、岡田氏を副会長、西野朗氏を強化委員長(後に代表監督)に起用するなどして、この3人でJFAを運営した。西野氏は後に退任したが、宮本会長とは、ガンバで監督と選手だったという間柄。協会に残った岡田氏を含め、この3名が、宮本体制を支持して会長就任が実現した。ちなみに、田嶋前会長は筑波大出身、岡田、西野両氏は早大ア式蹴球部(サッカー部)の同窓という間柄。そして「筑波大」「早大」出身者は今も昔も根強くあるJFAの2大学閥でもある。一方の宮本会長は同志社大学出身で、協会内での基盤が弱い。彼らの支え無しに宮本体制は立ち行かなかった。
「後見人じゃない」
しかし、そうした体制にヒビを入れたのが、【前編】で述べたW杯後の、森保一監督に代わる外国人監督の招聘案である。
前出のサッカーライターによれば、
「森保監督は、田嶋会長時代に選出された監督で、西野前監督の推薦によるもの。宮本会長は日本代表監督を自分で主導権を取って選んだ人にしたいという思いもあった」
この外国人監督招聘案については、ほぼ宮本会長の独断で行い、副会長である岡田氏にも相談がなく、事後報告だったという。そして【前編】で述べたように、招聘は失敗した。
すると、
「困った宮本会長は、西野さんを頼った。“助言者”という形で、次期監督選考に関与してもらい、結局、森保監督に期限付きで再登板してもらうことになった。その過程で岡田さんにも相談をしたようです。しかし、岡田さんや西野さんにとっては、勝手に森保監督を首にしようとした挙げ句、こじれた関係を取り持ってもらうべく、自分たちにすがってきたと映ったのでしょう。そもそも、岡田さんは森保さんの手腕を高く評価していましたし、西野さんにとっては自分が指名した後継者でもあるわけですから……」
この夏、岡田氏は知人にこう語っている。
「俺はツネの後見人じゃないよ」
「会長選に出る際には、“立候補してくれて良かった”と喜び、宮本氏が配った選挙用のマニュフェストで対談にまで応じていました。ずいぶん変わってしまったものです。岡田さん自身、もう70歳ですし、今治FCの会長や今治明徳学園の学園長も務めるなど忙しい。もう付き合っていられるか、という気持ちになったのでしょう」
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