交流戦MVPは「あの“交代”があったからこそ」…西武ライオンズ躍進の立役者「長谷川信哉」が明かす“意識が変わった一戦”
打撃の師匠
「バットを短く、グリップから指1本から2本分くらいで持つようにしました。相手が速い球を投げる投手なら、3本分は空けます。微妙な差ですが、短く持った方がコンタクトしやすいし、打席に入るときに心に余裕が持てるようになったんです。打球の飛距離が落ちていたら考えるところですが、短く持っても芯に当たれば、飛んでいくことも分かりました。このスタイルを続けるのか、長くバットを持ってあまりよくなければ戻すのか……打撃の引き出しが一つできたという感じがしています」
今季は73安打(昨季は90)。けがによる離脱もあり、150本という目標には届かなかったが、ここぞというチャンスの場面で打つ長谷川の姿を記憶しているライオンズファンは多いはずだ。そんな長谷川に、「打撃の師匠は?」と聞いてみると、「田辺(徳雄・現3軍コーチ、60)さんです」と即答した。
田辺コーチは強肩・巧打・好守の遊撃手で、西武黄金時代の1985年に入団。89年に正遊撃手になると、元西武監督の辻発彦氏(68)と“鉄壁の二遊間”を組み、華麗な守備を見せた。クラッチヒッターとしても知られ、元ロッテ監督の伊東勤氏(64)が8番、田辺コーチが9番を打った91~92年は8、9番で100打点近くをたたき出し「恐怖の9番打者」と呼ばれた。今季で引退した栗山巧(43)や、「おかわり君」で知られる中村剛也(43)ら、多くの打者を育て上げている。
「田辺さんは徹底して練習に付き合ってくれるんです。朝6時半からティー打撃をしたり、夜間練習も最後まで居てくださったり。1年間だけでしたが、中身の濃い練習をすることができました」
現役時代、「人生 苦もありゃ 楽もある」の応援歌で知られた田辺コーチは、寡黙なダンディズムを貫く求道者のようなイメージがあるが、
「もともと話すことがお好きなんでしょうね。田辺さんは話し出すと、とにかく長いんです(笑)。高卒の僕の場合、金属バットから木製になりますが、打ち方やボールの当て方などが変わります。どこに意識をもっていって、何に注意するのか、基礎からしっかりと教えて頂きました」
もっとも、勝負の世界で生きるプロ野球選手には、厳しい指導者の存在も欠かせない。
交流戦でミス
交流戦の長谷川は絶好調だった。西武は限定の黒ユニフォームを着用したが、その活躍を裏付けるように63番(長谷川)のレプリカユニフォームやTシャツは飛ぶように売れ、完売に。本人も「体がきつくても、うまくいくという循環になっていたので、このままずっと続いて欲しいという思いもありました」。だが、好事魔多し。
5月28日のヤクルト戦(神宮)。この試合、キャリアハイとなる7号ソロを放った長谷川だが、7回の打席、左翼へ放った痛烈なライナーを捕球されたと思い込み(実際は落球)、ベンチへ戻ってしまい、アウトに。長谷川は懲罰交代でベンチに下がった。西口文也監督(54)は試合後、「あり得ない走塁。士気に影響するというか、当たり前のことを当たり前にできないので代えました」と報道陣に語った。
「チームのためもありますが、監督は今後の僕のことも考えて、あそこで代えたのだと思っています。試合後の緊急ミーティングで鳥越(裕介、55)ヘッドからも名指しで厳しい言葉をかけられました。その意味をしっかり感じ取らないと、僕の野球人生での成長はないと思っています。実際に、あの試合から僕も意識が変わりましたし、あの交代があったからこそ、交流戦でMVPも首位打者もとれたのだと思っています」
交流戦では16試合、60打数22安打、打率3割6分7厘、2本塁打、9打点――見事な成績を残せたのは本人の努力もあるが、監督・コーチ、そしてスタッフの熱い指導や支えがあったからだろう。
【後編は「育成出身初の『交流戦MVP』獲得…西武のニュースター『長谷川信哉』が震えたCS敗退の瞬間『正直、ブーイングが起きるのではと思っていたんですが…』」】




