お金をかければ子どもは育つのか? 習い事もキャンプも消費財となる「体験消費社会」が生んだ「3つの深刻な弊害」

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 やり抜く力や思いやりなど、非認知能力を育む手段として、習い事や自然体験、職業体験などへの期待が高まっている。しかしその一方で、そうした体験の機会が家庭の経済状況によって左右される「体験格差」が、近年社会問題として注目を集めている。お金をかけなければ、子どもに十分な体験をさせることはできないのか――。先ごろ『余白と贈与で子は育つ』(集英社新書)を上梓した教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏は、この問いに答える前に、私たちは体験そのものが消費財化している現状が、逆説的に子どもたちから体験の本質を奪っている構造に目を向けるべきだと指摘する。

子どもの市場価値を高めるための非認知能力

 どんな体験であれ子どもの非認知能力を引き出すことは自明です。それがお金のかかる学校外教育である必要はありません。

 しかし暴走した市場は、あらゆるものを(ときにはひとの心まで)お金に換算してしまいます。ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル氏が『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(ハヤカワ文庫NF)で世界に突きつけた現実です。

 市場経済における競争力を高める武器として各種能力の獲得をうたう体験コンテンツが商品化され、消費財化していきます。さらに、高度成長期以降続く大量消費社会の幸福観に、消費財としての子どもの体験までもが飲み込まれていきます。習い事や子どもキャンプなど、たくさんの体験コンテンツを消費できた子どものほうがしあわせで豊かであると、多くのひとが無意識のうちに思い込む。"体験消費社会"です。

 地域が空洞化し、かつてはいわば社会からの贈与として無償で提供されていた学びの機会が失われました。代わりにそれらがアウトソーシングされ、"体験"というパッケージ商品になり、一つひとつに価格がつけられるようになったのです。この状況は、単にお金がかかるようになったという経済的な問題に留まりません。体験が消費財化し、将来の成功のための武装として扱われるとき、そこには取り返しのつかない「三つの深刻な弊害」が生じます。

子育ての責任をすべて家庭に押しつける社会

 第一の弊害は、子育ての家庭依存がこれまで以上に進行し、親と子の双方を自己責任論という底なし沼へ突き落としてしまうことです。生まれた家庭の経済状況によって体験に差があるという議論が活発になればなるほど、皮肉にも、子どもの体験を整えるのは親の責任であるという認識が強化されます。公的な支援策までもが"体験クーポン"のようなものを配付するだけで、結局は家庭の"選択"に依存するようになると、親はわが子のために最適な体験を選ばなければならないプレッシャーにさらされます。

 家庭を介した支援という構造の限界です。子どもが直接支援される構造に変えなければなりません。「こども家庭庁」のネーミングにおいて「家庭」はないほうがいいのではないかと議論されたのは、そのためです。

体験までもが子どもの必修科目にされてしまう

 第二の弊害は、体験が教育的効果というモノサシで管理されることにより、子どもの学びから喜びが奪われてしまうことです。本来、子どもにとっての学びとは、この世界の神秘に触れ、体が震えるような発見をすることでした。しかし、学校制度が学びに達成目標と序列化を持ち込んだことで、"学校に取り込まれてしまった学び"から喜びが奪われました。

 そしていま、学校以外の学びまでもが同じ毒に侵されようとしています。キャンプへ行くのも、ボランティアをするのも、すべては能力向上のためという功利主義的な目的に吸い寄せられ、「いいこと思いついた!」という子どもらしいみずみずしい衝動が介在する余白はなくなります。大人が先回りして教育的価値のある学びをお膳立てし、その成果を数値化して評価しようとする姿勢は、子どもが主体的に世界とかかわる喜びを根本から破壊するものです。

『余白と贈与で子は育つ』(集英社新書)

書籍を購入する『余白と贈与で子は育つ』(集英社新書)(他の写真を見る)

大量消費社会の物差しで自分を見てしまう子どもたち

 第三の弊害は最も深刻です。体験の多い・少ないを「格差」とラベリングすることで、子どもたちの内面に取り返しのつかない欠損感を植えつけてしまうことです。善意の裏側で「体験が少ない自分はかわいそうな存在だ」という自己像が刷り込まれ、数えられる部分だけで自らの豊かさを測るマインドセットが、子どもたちの自己像を激しく歪めます。

 体験はおもちゃに似ています。高価なおもちゃより、むしろ枝とか小石とか廃材とか、おもちゃの顔をしていないもののほうが実はより多くの学びをもたらすことがある。習い事や旅行の経験が少ないからといって、その子の人生が欠陥品になるわけでは決してありません。むしろ、体験消費社会という見えない檻に閉じ込められていることに無自覚なまま、スペックの積み上げに奔走させられる子どもたちのほうこそが、常に「いま」を奪われるという意味で現代社会の被害者といえるかもしれません。

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 新潮QUEで配信中の記事【子どもの「体験格差をなくせ」という合言葉がもたらす悪循環と「3つの弊害」】では、おおたとしまさ氏が、善意の寄付金や自治体予算が「体験プロバイダー」の懐に収まる構造や、「体験格差」という言葉そのものがかえって体験消費社会を助長してしまう逆説を指摘。さらに、こうした状況を乗り越える手がかりとなる「余白と贈与」という考え方について詳しく解説しています。

デイリー新潮編集部