【ブラッサム】元夫の弟と再婚、夫を残して上京し出会った別の男と“即日”……「恋するのが怖い」珠とは違いすぎる宇野千代の恋愛遍歴

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西洋料理店「燕楽軒」でつかんだ縁の影響

 二人は東京で最初、なんと千代の元夫で忠の兄である亮一の下宿に居候し、その後、小石川駕籠町の女髪結いの2階に移った。千代は実業之日本社という出版社の会計係やホテルの食堂の給仕、雑誌の口絵のモデルなど、さまざまな仕事を経験した後、本郷の「燕楽軒」という西洋料理店の給仕女を務めた。ただし、「悠樂軒」で長く働く『ブラッサム』の珠と違って、わずか18日しか勤めていない。

 しかし、作家を志す千代にとっては、作家をはじめ文学関係者らとの重要な出会いが凝縮した18日間だった。とくに燕楽軒の常連であった『中央公論』編集長の瀧田樗陰との出会いは、千代にとって重要で、彼がいつもチップとしてテーブル上に置いて帰る50銭(『ブラッサム』の黒崎編集長と同じだ)にも助けられた。
 
 大正8年(1919)8月、千代と忠は結婚したが、翌年7月、忠が東京帝大法学部を卒業すると、千代は札幌への移住を余儀なくされる。千代と忠の双方にとっての親戚筋の紹介で、忠が北海道拓殖銀行に就職したためである。

 だが、札幌で忠との夫婦生活を送っていた千代に、燕楽軒での人脈が大きく影響をおよぼし、彼女のその後を変えていった。

 最初に『時事新報』の懸賞小説への応募があった。全国から集まった3000を超える作品のなかから千代の『脂粉の顔』が第1位に選ばれたのだが、選考委員の1人の久米正雄と燕楽軒で会っていたことが影響した可能性がある。なにしろ久米は、燕楽軒で働く千代にほれ込み、交際を申し込んでいたほどだったのである。ちなみに、このとき第2位になった尾崎士郎は、のちに千代の人生を揺さぶる。

燃え上がった感情を抑制できずに

 千代は続いて『墓を発く』という作品を書き、『中央公論』の瀧田編集長に送っている。その後のことは、千代が『生きて行く私』などに記したところでは、瀧田氏からは〈うんともすんとも言っては来なかった〉ので東京まで確認に行くと、大正11年(1922)4月12日、『中央公論』5月号にその小説がすでに載っており、366円という巨額の報酬を得た。

 現実には、瀧田とのあいだに何度かのやりとりがあったと考える向きが多い。それはともかく、このとき千代は札幌を2日間だけ留守にする約束で上京したのに、大金を得て6年ぶりに岩国に帰り、義母や弟妹らに大盤振る舞いし、祖母にも会って大金の一部を手渡した。

 その後、札幌までの切符を買い、予定より遅れて夫のもとへ帰るつもりで岩国を発ったが、東京で少し時間があったので、瀧田にあらためて礼をいうために中央公論社に寄ったという。瀧田は会社におり、『時事新報』の懸賞小説で第2位だった尾崎士郎もいた。このときの尾崎の印象を、千代はこう書いている。

〈男の眼が、一種言い難い微笑を浮かべたまま、「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾崎士郎です」と言ったときの、その、おどけたような吃りの癖まで、思いもかけない感情の陥し穴に、私を誘い込んだのであった。(中略)私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過ごして来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった〉(前掲書)

 その後、瀧田から同時に紹介された評論家の室伏高信と3人で、尾崎が離れを借りていたホテルに行って飲み、北海道へ帰る時間はとうにすぎてしまう。尾崎は千代のためにもう1部屋用意させたが、〈それは、二人の間に燃え上がった感情を抑制する役には立たなかった〉(前掲書)。

 こうして出会った晩に、尾崎と深い仲になった千代は、そのまま札幌に帰ることをやめてしまう。尾崎をモデルとする西尾一路(染谷将太)との出会いを、『ブラッサム』はどこまで描くだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動を行うほか、歴史的な視点を応用し、経済から文化まで現代のさまざまな社会状況にも言及。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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