「見たか! おっさん!!」…最下位から2年でリーグ優勝を果たした「1999年の星野仙一監督」 いまこそ振り返りたい中日が“強竜軍団”だった頃

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 東海ラジオで35年間、プロ野球実況を担当した村上和宏さんは、優勝争いを戦うチームが抱える「目に見えない」プレッシャーを長く取材してきました。前回は、優勝の「経験値」の有無が大きく左右することを解説していただきました。では、その「経験値」が少ないチームはどうするのか……村上さんが長く取材した、「1999年の中日ドラゴンズ」がまさにそうでした。

「最下位覚悟で優勝を狙います」

 連載の前回で、1999年の中日ドラゴンズ優勝は、チームをひとつにまとめ、選手を鼓舞し続けた星野仙一監督(当時)がいたからこそ、と紹介しました。

 そこで今回は、「1999年の星野仙一監督」について、詳しく書きます。

 第2次星野政権(1996~2001年)時代、球団にとって大きな出来事がありました。それは97年に、本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドーム(当時)に移転したことです。

 プロ野球の本拠地球場の中でも狭い部類だったナゴヤ球場から、日本で最も広いグラウンドのひとつであるナゴヤドームへの移転は、ただ本拠地が変わる以上に「野球の質」が一変することを意味していました。

 ナゴヤ球場時代のドラゴンズは「強竜打線」といわれ、バッティングが売りのチームカラーでしたが、ホームラン数の減少は明らかでした。

 点がなかなか取れないならどうするのか?

 答えは「点を取らせない」です。

 1年目の96年シーズンを2位で終え、迎えた97年2月1日。キャンプ初日の挨拶で星野監督は「最下位覚悟で優勝を狙います」と宣言しました。同年の結果は、言葉通りに最下位。広いナゴヤドームに合った野球ができるチームにすることは叶いませんでした。

 シーズン終了後、星野監督はすぐに動きます。

 まず、「韓国のイチロー」と呼ばれていた、李鍾範(56)を獲得します。ホームランが期待できないなら、足で一つ先の塁をという野球スタイルの変革です。

 また、大豊泰昭・矢野輝弘(当時の表記・57)と、阪神の関川浩一(57)・久慈照嘉(57)の2対2の交換トレードを敢行。これも「機動力野球」実現のための補強でした。さらにドラフトでは、大学の後輩でもある明治大学の川上憲伸(51)から逆指名を勝ち取りました。

 山本昌(61)、野口茂樹(52)、門倉健(53)といった先発投手陣に、ルーキーの川上が先発ローテーションに加わって厚みを増し、96年から加入していた韓国の「国宝級投手」という異名を持つ絶対的守護神、宣銅烈(63)につなぐセットアッパーとして、先発要員だった落合英二(57)を配置転換するなど、「守り勝つ野球」のため投手陣の改革にも取り組みます。

 それだけではなく、球団OBに偏りがちだったコーチ陣には投手コーチに宿敵巨人の抑えとして活躍した宮田征典、打撃コーチには広島・阪急で活躍した技巧派バッター水谷実雄を招聘して「新しい血」を入れることで従来のスタイルからの脱却を図りました。

 星野監督は97年のシーズンを通して、最下位に沈むチーム状況を冷静に分析し「目指すべきスタイル」実現に向けて、何が足りないのか、どこを変えなければならないのかを考え、矢継ぎ早に手を打っていったのです。

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