「亡くなる6週間前までアトリエを備えた病室で…」 草間彌生さんの「命懸け」の創作人生 80歳を超えて増した創作力

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ハプニング芸術も展開

 29年、長野県松本生まれ。生家は種や苗を扱う問屋で裕福だった。10歳ごろ、母を描いたとされる絵はすでに水玉で埋められている。

 57年、単身ニューヨークへ。無限の網を描いたネット・ペインティングで脚光を浴びる。次いで布に詰め物をした立体作品のソフト・スカルプチュア、中でも男根状のオブジェが話題に。反戦などを訴え、街頭で裸になった男女に水玉を描いたりハプニング芸術も展開した。

「芸術の力で強迫観念から自分を救済するだけでなく、困難に満ちた世界を救済したいとの姿勢はアメリカ時代から生涯一貫しています」(建畠さん)

 73年に帰国。才能にいち早く気付いた人は少なく、誤解と偏見にさらされる。

 93年、ベネチア・ビエンナーレ国際美術展で建畠さんが日本館のコミッショナーを務めた際に草間さんの個展を開き、再評価が一気に進んだ。以来、ニューヨーク近代美術館など世界の名だたる美術館での個展で称賛を集めた。2016年に文化勲章を受章している。

亡くなる6週間前までアトリエを備えた病室で……

 美術評論家の酒井忠康さんは言う。

「前衛として新たな芸術を開拓した自負心があった。草間は草間でしかない、と流行など全く気にしない。名声そのものを求めておらず、作品が大切に扱われて後世に残っていくことに重きをおいていました」

 生涯独身。80歳を超えて創作力はさらに増した。

「試行錯誤がなく黙々と完成に向かう。先にイメージが全て見えているのでしょう。天才でしたが、ユーモアや茶目っ気もあった。カボチャは私よ、と言っていました。飾らず威厳もあって、かわいらしいからとのことでした」(建畠さん)

 8月14日、97歳で逝去。

 亡くなる約6週間前までアトリエを備えた病室で絵を描き続けた。〈私が死んだ後も、皆さん、どうぞ私の創造への意欲、芸術への希望と、そうしたものに対する私の情熱を、少しでも感じていただけたら、これに勝る喜びはありません〉。10年前、国立新美術館での個展を控えた会見での言葉から、創作は命懸けの闘いだったとうかがえる。

週刊新潮 2026年9月10日号掲載

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