玉城デニー氏と保守系新人の“一騎打ち”だけではない…「沖縄県知事選」の“無所属候補”をめぐる問題 組織の後ろ盾なくして「離島を含め2000カ所以上」にポスターを貼れるのか
排除と冷淡
同種の恣意性は討論会に限らない。38島前後ある有人離島も含めて、沖縄全県で2362箇所あるというポスター掲示場所の情報提供一つをとっても、県の選挙管理委員会の4候補に対する対応は冷淡だ。
当初県選管は「各市町村選管に自分で問い合わせよ」として、市町村選管の連絡先リストのみを渡した。候補者側から強く抗議を受けてようやく資料を出してきたという。こんなハードルの高さでは、全県全島を網羅する組織的基盤を持つ候補しか立候補できない。討論会からの排除や選管窓口の冷淡さ――。これらはいずれも、民主主義の根幹をなす基準やインフラを欠いたまま、現場の裁量で「本気で相手にすべき候補」が選別される「不公平」の一例だ。興味深いことに、これらの候補は、互いのポスターを分担して貼るなど「共同戦線」を組んで不公平な扱いに対抗している。
ここで整理したいのは、選挙という制度には論理的に異なる二つの機能があるという点である。
一つは集計装置としての選挙――誰が権力の座に就くかを決定する機能である。この軸で見れば、当選可能性ゼロの候補が争いに加わることは、確かに結果に対しては何の意味も持ちえない。
これに対して、もう一つの軸がある。経済史家であるダグラス・ノースらが提示した「政治への入り口が閉ざされていないことを、身をもって示す存在」としての選挙である。ノースは政治・経済体制を、特権的な連合体が資源へのアクセスを独占する「限定的参入秩序」と、身分や党派によらず誰もが自由に競争に参入できる「開放的参入秩序」とに区別したが、この軸で評価すれば、供託金300万円という定額さえ払えば、いかなる後ろ盾も持たない個人が知事という統治権力の座を正面から争える。つまり、日本の選挙制度は、閉鎖系ではなく開放系として機能する民主主義であることが証明されているのだから、候補者の属性にかかわらずジャーナリズムや選管は公平な対応を心がけるべきだろう。
この二つの評価軸を区別せずに「勝てないなら無意味だ」と切り捨てるのは、勝敗(集計機能の物差し)だけで選挙を測ろうとする非民主的な態度である。
「いかに民主的選挙が定着しているか」
ただし、留意すべき点もある。
第一に、300万円という世界一高額な供託金は完全に中立な基準ではない。金銭による資格審査である以上、資力のない者を実質的に排除する効果を持つ点は否定できない。「誰でも参入できる」という理念に対して、「金を払える者なら参入できる」という現実的な制約を課している、という点は正直に認めたい。もっとも、この制約を取っ払ってしまったら予想外の「乱立」さえ予想され、有権者や制度自体のコストがいたずらに膨らみかねないから、高額な供託金は「必要悪」といえるかもしれない。
第二に、参入する動機のレベルが一様ではないという点だ。4候補それぞれの動機を見ると、対処すべき政治・行政上の課題の選択を、ある種の人気投票によって決定する仕組みの構築を唱える兼島俊氏、「琉球の独立」を本気で唱えている屋良朝助氏のように、選挙の主要な論点(基地問題/経済対策)の外側にある争点を可視化する「熟議空間」の拡張を求める候補者もいれば、ワクチン接種停止を訴える比嘉隆氏や貧困の解消を志す末吉正弘氏のように、シングル・イシューに拘って知事選に臨む候補者もいる。つまり、候補者が重点を置く政策課題が、有権者の手の届きにくいところまで広がりすぎるきらいがあるということだ。とはいえ、それぞれの候補者にとって重要な要素でもあることもまた確かである。
いずれにせよ、供託金没収を覚悟のうえで出馬する候補の存在は、当選可能性という集計上の指標では測れない、「その政治体制が参入への門戸をどこまで実際に開いているか」「いかに民主的選挙が定着しているか」を見る指標である。選挙報道が構造的に見落としがちな論点として触れておきたい。
知事の椅子を争う主要2陣営の大接戦については、第1回【「沖縄県知事選挙」で新人「古謝玄太氏」が現職「玉城デニー氏」をリードの声も…古謝氏に囁かれる“弱点”と、選挙戦のカギを握る「妻の熱すぎる応援演説」】で詳報している。
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