【豊臣兄弟!】最強のライバル・徳川家康を“滅亡寸前”で救った「巨大地震」…発生しなければ江戸幕府はなかった?

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敗戦しても秀吉に臣従しなかった家康

 とはいえ、戦力に決定的な差があることに変わりはなく、その後、戦況は膠着状態に陥ったが、秀吉方は織田信雄への工作を優先するようになる。実際、信雄さえ調略できれば、織田家のための戦いという家康の大義名分は失われる。秀吉は家康を二の次にして、長島城の信雄への工作を進め、11月11日についに和議に応じさせる。だが、和議といっても信雄に人質を出させ、領土の一部を召し出させる内容で、事実上の信雄の敗北であり、秀吉と信雄の立場が名実ともに逆転したことを意味した。

 こうなると家康も戦いを止めるほかなく、11月17日に岡崎城(愛知県岡崎市)に戻り、合戦は終結。翌月、家康は次男の於義伊(のちの結城秀康)を、秀吉の養子という名目で、事実上の人質として大坂へ送っている。

 翌天正13年(1585)2月22日、信雄は大坂城に登城して秀吉に臣従し、かつての主従関係は完全に逆転した。しかし、家康は秀吉に人質こそ出しても、臣従には応じず、むしろ対秀吉に備えて相模(現在の神奈川県中西部)の北条氏との同盟を強化するなどしていた。要するに、秀吉との冷戦状態が続くことになった。

 これに対して秀吉は、家康が自分に敵対している越中(富山県)の佐々成政と連携していると疑い、あらたな人質を出すように家康に求めた。しかし、家康のもとでは酒井忠次や本多忠勝らの重臣を中心に強硬論がもっぱらで、秀吉の要求を正式に拒んだ。そんななか秀吉との融和を説く無二の重臣である石川数正が、家族とともに秀吉のもとへ出奔するという重大事まで生じてしまう。

もう少しで滅ぼされるところだった家康

 事ここに至って秀吉は、年明けにも家康の成敗を決断する。人質を差し出すように要求して正式に拒まれたのでは、天下人としてのメンツが立たない。そんな折、徳川家中のことを隅の隅まで知っている石川数正が自分のもとにいる。家康を滅ぼしてしまう絶好のチャンスである。

 これに対して、家康は北条氏との連携を強化しながら、三河国内の城を整備するなど、秀吉来襲に備えた。とはいっても、秀吉が家康を成敗するために進軍するとしたら、十数万なり20万なりの大軍で攻め寄せ、有無をいわさず家康を降伏させてしまっただろう。徳川家は絶体絶命の危機に追い込まれたといってよかった。

 ところが、そんな矢先の天正13年(1585)11月29日の夜半に、マグニチュード8.6程度と推定される巨大地震(天正地震)が発生した。国内最大規模の内陸地震ともいわれるこの災害の恐ろしさは、飛騨(岐阜県北部)の白川郷の帰雲山が大崩壊して、山麓にあった帰雲城と城下が土砂に埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族と多数の領民が犠牲になったというエピソードからも伝わる。モロッコの土石流が想起される。

 被害は畿内から東は尾張(愛知県西部)まで広範囲におよび、羽柴秀長の美麗な大坂屋敷が倒壊。秀吉にとって東征する際の最前線の拠点である大垣城(岐阜県大垣市)も倒壊。織田信雄の居城、長島城も倒壊して天守が焼失した。この被害を受け、秀吉はもはや家康成敗に出陣することはできなくなり、軍事力を使わずに家康を臣従させる方向にあらためた。

 こうして家康は、滅ぼされるか、生き残ったとしても領地の大半を没収されたに違いない秀吉による「成敗」を免れることができた。しかも、地震の被害に関しても、隣国の尾張が大きな被害に見舞われながら、家康の領国である三河以東にはほとんど被害がおよばないという幸運に恵まれた。

 天正地震が起きなければ、おそらく徳川家康は天下人になれなかった。歴史はこんなところで、大きく変化するのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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