【風、薫る】夫を失った失意の「上坂樹里」直美はどうなる? 歴史上のモデルに見える看護婦のパイオニアの引退への道
力を入れていた派出看護婦会が内部分裂
さて、現在、『風、薫る』での大家直美は、病院に来ることができない人や貧しい人のもとに看護婦が出向いて看護をする派出看護婦会をつくり、そこに一時は新潟に行っていたりんも引き入れて、一緒に活動している。だが、この派出看護の世界、歴史上の鈴木雅のもとでは、次第に種々の問題に見舞われるようになっていった。
派出看護は次第に市民権を得て、ほかにも派出看護婦会が数多く立ち上がった。そこで雅は、一ノ瀬りんのモデルである大関和と一緒に、ほかの派出看護婦会に参加を呼びかけ、いわば業界団体である看護婦人矯風会を結成した。そして、看護関連の情報を発信したり、派出看護婦たちの交流を図ったりしていたのだが、次第にこの会に向けた誹謗中傷などが頻発するようになっていった。
看護婦人矯風会のなかで中心的な位置づけの団体といえば、当然ながら、雅と和の東京看護婦会だった。その規模はある時期まで順調に拡大していたが、次第に不協和音が生じることが多くなっていった。それは和と雅の看護婦としての姿勢の差によるものだった。和はドラマのりんのように、看護婦としての技能を大事にしながらも、慈善的な意識などの精神性を重視した。一方、雅はあくまでも技能で対処すべきだという姿勢だった。とはいえ和と雅の2人は信頼関係で結ばれ、たがいの違いを尊重し合っていたのだが、周囲は精神性を重んじる「大関派」と技能を重んじる「反大関派」に割れてしまったのである。
そんなとき和に悲劇が見舞った。母の背中を見て看護婦をめざしていた娘の心が、もう少しで看護婦の実習が終わるというタイミングで結核に罹患し、それからわずか4カ月で急死してしまう。明治33年(1900)のことだった。東京看護婦会の内部分裂に嫌気がさしていたところに、簡単には受け入れられない娘の死と向き合うことになった和は、まず休職する。続いて雅に辞表を提出し、箱根にこもってしまった。
パイオニアに対するあまりの屈辱に
しかし、ある意味、雅のほうが上手だった。翌年、雅からの至急帰るようにという電報を受けとった和は、東京に雅を訪ねると、前年に渡した辞表を返され、自分は引退するから東京看護婦会を継ぐように、と告げられた。しかも、雅は取りつく島もなく、和は雅の要請どおりに会を引き継ぐしかなかった。
いったいなぜ雅は突然、引退しようと決意したのだろうか。ひとつは息子の良一の病気だといわれる。学習院初等学科から独逸学協会学校中等部(現・独協中学、高校)に進んでいた良一は、性質が繊細であるがゆえに胃を悪くして中退し、自宅で静養していた。それになるべく付き添いたいというのである。
だが、雅がもう看護婦の仕事はできないと決断した最大の理由は、前年に東京府が発布した「看護規則」にあったようだ。この規則が取締りの対象とするのは派出看護婦で、病院勤務の看護婦は除外されていた。しかも発令の理由書には、あまりに屈辱的な表現が並んでいた。「各営業者間に私設せる所謂看護婦会または看護婦養成所と称する場所に於ては、一般に速成を主とし、極めて不完全なる要請をなし、その大部分は殆ど看護婦の仮名を借るものたるに過ぎず」「懶惰放恣にして半ば売淫婦たるが如く風紀を紊る者」。派出看護婦を貶めるこんな表現が、いくつも羅列されていたのである。
看護婦の、そして派出看護婦のパイオニアとして道を切り開き、その質の向上をめざして少しずつ実現し、強い自負をいだいていた雅にとって、これ以上の屈辱はなかったと思われる。実際、これに絶望して、看護婦の道を歩むことをやめた、と考える向きが多い。このとき雅は、まだ42歳にすぎなかった。
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