白昼に警官殺害と拳銃強奪、数時間後に強盗殺人…凶悪事件の「元警官」が護送中に放った気になる言葉「京都府警にはヘタ売らしたる」
10日目に自供し、公判で再び否認
「指令室から派出所勤務というのはまず左遷」と警察関係者は言うのだが、広田の場合、その理由は何なのか。直属の上司だった警部補は「好き嫌いの激しい男で、それに嫌われた」と話す一方、署内で起こった盗難事件で疑われたという説などさまざまだ。
左遷後の広田は署長や幹部の悪口を公然といい、消費者金融から借金して競艇や競馬へ。はては小豆相場に手を出して巨額の借金を抱えるが、その一方で計画を考えた。――西陣署の保管室から拳銃を盗む。盗んだ拳銃で郵便局や消費者金融を襲って金を奪う。犯人からの通報を装ってビストルを発見したことにする。
昭和53(1978)年7月、広田はこの計画を実行した。しかし、トリックは簡単に見破られ、強盗傷害で逮捕。否認していたが10日目に自供し、公判になって再び否認する。そればかりか、過激派の機関紙「人民新聞」で無実を訴えた。
〈どうか私が無実になれますようまた現在身柄拘束されていますが、一日も早く釈放されますよう力を貸して下さい。私の無実は勿論のこと、現在の警察組織についていかにデタラメであるかを公表したいのです。〉
この事件の一審判決は懲役5年(求刑8年)。検察の控訴で高裁判決は懲役7年。上告をすすめる弁護士に彼は、「検察も裁判所も信用できない。服役して出所後のことを考える」と答えたという。なおこの事件は、映画「十階のモスキート」(1983年)の題材となった。
またも公判で「私はやっていません」
模範囚として服役した広田は、仮出所して5日目の1984年9月、前述した京都での警官殺害と拳銃強奪、大阪での強盗殺人に及んだ。当時は警官による凶悪事件が相次いで発生しており、広田の事件と逮捕後の行動についても、多数のジャーナリストや文化人が分析を試みた。
「ヘタを売らせる」発言もあり、犯行動機は京都府警に対する報復と報じられたが、同年10月までの自供では「親子3人が一緒に暮らすための家を買いたかった」。しかし、同年12月からの公判では「私はやっていません」と全面否認に転じた。
物証となる包丁と拳銃は現在に至るまで発見されていない。弁護側は目撃証言の曖昧さを指摘し、唯一の証拠である自供も「拷問によるもの」として無罪を主張。全面否認のまま結審した。
1988年10月、大阪地裁が下した判決は死刑。1993年4月の控訴審判決でも、大阪高裁は一審判決を支持した。1997年12月には最高裁が無罪の主張を退け、死刑判決が確定。なお、広田はこの過程で結婚前の姓である「神宮」に戻した。
死刑囚となった広田は、再審請求を却下され続けながら無罪を主張。並行して2009年には独房での自殺未遂、2013年には執筆原稿の外部郵送をめぐる国家賠償請求訴訟が報じられた。事件から42年、現在83歳である。
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