「男はつらいよ」シリーズでブッチ切り1位の人気を誇る“誰もが納得のマドンナ女優”といえば? 寅さんを生きた「渥美清さん」が役者の道に進んだのは“補導”がきっかけだった

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“親友”、「徹子の部屋」出演も一回のみ

 1969年、映画「男はつらいよ」が当たり、以降は国民的俳優になるわけだが、そんな中でも、下積み時代の仲間は大切にした。渥美と浅草でお笑いトリオ「スリーポケッツ」を結成していた関敬六はその1人で、「男はつらいよ」の第1、2作、そして第26作から渥美主演で最後の作となる48作までは全て出演。ほぼチョイ役だったが、そんな関の舞台での掴みは以下だった。

「私は、日本一有名な映画シリーズ『男はつらいよ』に毎回出ています。しかし、どこに出ているかは、よく観ないとわかりません(笑)」

 同じく、「スリーポケッツ」の一員の谷幹一に、後年、渥美が呟いた言葉は衝撃的だ。

〈「売れてきてから寄って来るのは友達じゃない」〉(「読売新聞」1999年8月31日付)

 公私をしっかりと分けていた。例えば、名が知られてきてから、こんなことがあったという。ある女優に「会いたい」と言われて会った。すると翌月、その模様がある雑誌で、「渥美清がお見合い」という記事になっていたという。“風天”の俳号で俳句もたしなんだ渥美の作品に、以下がある。

「芸は身を 助くるほどの ふ幸せ」
「うれしくて やがて悲しき 道化かな」

 黒柳徹子とは親友同士で、毎年正月に「男はつらいよ」の新作が封切られると、一緒に観に行くほどの仲だった。それゆえ、結婚の可能性も含めマスコミに騒がれることもあった。その時の渥美の黒柳へのボヤキは振るっていた。

「顔が私で、声があなたの子どもが出来たらどうするんですか!?(笑)」

 その実、渥美は黒柳の頭の良さを買っており、だからこそ、(今では“若手芸人殺し”として有名な)黒柳がどこで笑うのかを観察していたフシがあった。それほどの信頼がありながら、渥美が「徹子の部屋」に出たのは1回のみ。その理由を渥美本人が黒柳にこう語ったという。

「私より面白いことを話す人は、いっぱいいるじゃありませんか。それにもし、私が真面目に話すと、『なんだ、寅さんて、演じている人は面白くないんだな』となる。もし寅さんより、僕のトークが面白いのなら、それはそれで問題だしね」

 役のイメージからも、演じる本人は表に出るべきではないと固辞していたのである。そしてその姿勢は、家族にも透徹された。ある年の寅さん映画の後、黒柳と渥美が一緒にタクシーに乗り、渥美を、自宅近くという目黒区の路上の角で降ろそうとした時だ。5メートルほど先に、見知らぬ女性が立っていた。

「なんか、変な人いるから、今は降りない方がいいわ」(黒柳)
「そうですね」(渥美)

 しばらくして戻ると、その女性はいなかったので、黒柳は安心して渥美を降ろした。その女性が、渥美の帰りを待っていた妻だと黒柳が知ったのは、渥美の死後だったという。

アフリカでは偉人!?

「お兄ちゃん、これが官邸よ」

 寅さんの妹、さくら役の倍賞千恵子の一言である。渥美は死後、国民栄誉賞を受賞。それを代理として官邸まで受け取りに来たのが「男はつらいよ」の出演者、スタッフの面々だった。「寅さんが生きていたら、受賞をどう言うか?」との報道陣に、倍賞はウィットたっぷりに答えた。

「嬉しいんだけど、照れ臭いから、『お前、代わりに行って来てくれよ』と言われて、やっぱり私が受け取っていたと思います(笑)」

 ところで寅さんと言えば、海外でも大人気。1983年には「男はつらいよ」が、「世界最長の映画シリーズ(作品数)」(当時)としてギネス登録。1988年にはアメリカの有名誌「タイム」の表紙に車寅次郎として登場している。

 1996年、訃報が入ると、米誌「ニューズウィーク」が渥美を「アジアのチャップリンだった」と掲載(8月19日号)。オーストリア・ウィーンのヘルムート・チルク前市長は「大変な悲しみ」と談話。同前市長は、訪日経験30回以上の親日家で、大の寅さんファン。1989年には、市長の座にあった彼の働きかけでウィーンを舞台にシリーズ唯一の海外ロケとなった「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」が完成。同前市長も、ちゃっかり出演している。「欧米にあった、寝ないで働く日本人というイメージを変えた人。ウィーンっ子と同じく、寅さんは人生を楽しむことに重きを置いていた」と同前市長はコメントしていた(※拙訳)。なお、没後は、「同一俳優主演による、最多製作映画シリーズ(48作)」として、「男はつらいよ」がまたもギネス登録されている。

 では、渥美清自身と海外は、結び付きがあるのだろうか?

 これが大アリで、渥美の一番の息抜きは「アフリカに行くこと」だったという。きっかけは1965年、渥美がドキュメンタリー映画を得意としていた羽仁進監督に、「一緒に仕事をしませんか?」と持ち掛けたこと。自分の新境地を開こうとする前向きさを羽仁監督は感じたという。

 そこで、腹案として持っていたアフリカでの撮影を羽仁が打診すると、渥美も快諾。日本の気のいい商社マン(渥美)が現地人(ほとんど素人)と協力しながら仕事を進める映画「ブワナ・トシの歌」が完成し、望外の大ヒットとなった。以降、渥美は、アフリカの手つかずの自然や素のままの人々が気に入ってしまったようで、何度も自費で渡航。時には雑誌に旅行記を寄稿し、テレビのアフリカ特番にも名乗りをあげ、その現地リポーターを務めている。

 ところで、その「ブワナ・トシの歌」の撮影の時だ。羽仁監督が現地(タンザニア)の部族に挨拶に行った。すると、なぜか部族の皆は監督の前を素通りし、一緒にいた渥美に先ず挨拶をした。「やはり主演俳優ならではの風格や威光を、自然に感じたのかな?」。羽仁監督はそう思ったという。

 撮影は順調に進み、部族の皆が、踊りを披露してくれた。その時、羽仁監督は、彼らが渥美をもてなす意味がわかったという。彼らが、神の化身として被る仮面は、四角く、目の穴が細く空いていた。渥美とウリ2つだったのだ。

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