ソフトバンク・中村晃の決断で思い出す 星野仙一、掛布雅之、金本知憲を引退へ向かわせた“分岐点”
33歳の若さで引退
野球人生最良の年の翌年から、引退へのカウントダウンが始まったのが、阪神・掛布雅之である。
1985年、掛布は打率.300、40本塁打、108打点を記録し、チームの21年ぶりリーグ優勝と日本一の立役者になった。その翌1986年、状況は一変する。
開幕後、5試合連続無安打と不振に陥った虎の4番は、4月18、19日の中日戦2試合で9打数4安打4打点1本塁打と当たりが戻り、チームの連勝に貢献した。翌20日の中日戦でも、4回に2試合連続となる3号2ランを放った。
好調が戻りかけた矢先だった。6回の4打席目、中日のルーキー・斉藤学から左手首に死球を受けて骨折。連続試合出場記録も「663」で止まった。
この時点で、それが引退の引き金になると誰が想像しただろうか。
負の連鎖は続く。5月16日に復帰した掛布は、同27日の巨人戦で打球を右肩に受けて再離脱。8月26日のヤクルト戦では左手親指を骨折し、同年は67試合の出場に終わった。
翌1987年以降も腰痛、左膝痛など故障が相次ぎ、再び輝きを取り戻せないまま、1988年9月14日、「これ以上続けると、チームや球団に迷惑をかける」と33歳の若さで引退を発表した。日本一からわずか3年後のことだった。
引退の引き金となった死球について、掛布氏は2017年2月24日放送の日本テレビ『人生が二度あれば 運命の選択』で、「(連続出場記録が途切れ、試合を休めることに)安心してしまった。あの厳しい4番のバッターボックスに入らなくていいんだ」と明かしている。肉体の故障だけでなく、4番として打席に立ち続ける精神力も、その死球を境に揺らいでいったのだろう。
勝つための手段として僕は外れる
世界記録の通算1492試合連続フルイニング出場を達成した“鉄人”金本知憲は、肩のケガが引退への大きな転機になった。
2010年3月17日のオープン戦、ヤクルト戦。試合前の練習で左中間への飛球を追っていた金本は、中堅手と激突し、右肩棘上筋部分断裂の重傷を負う。
4番の責任感から、開幕後も金本は試合に出続けた。右肩の不安が最悪の形で露呈したのは、4月17日の横浜戦だった。
6回2死二塁、吉村裕基の三遊間を破る打球を処理しながら、本塁送球を自重して失点を許した。3点ビハインドの8回にも、2死二塁で石川雄洋の左前安打を処理した直後、本塁に送球しようと振りかぶった瞬間に動作を中断する。肩が壊れる予感があったのだろう。ボールはグラウンドに叩きつけるような悪送球となった。
翌18日の横浜戦の試合前、金本は真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかけるし、特に投手に、あのスローイングじゃ迷惑をかけている。勝つための手段として僕は外れる」とスタメン辞退を申し出た。
真弓監督は必死に説得したが、本人の意思は固かった。この瞬間、世界記録も「1492」で止まった。
「2010年にケガしてからは、24時間、常にそのこと(引退)が頭の中から離れなかった」(自著『人生賭けて~苦しみの後には必ず成長があった~』小学館)
金本はその後も、ボロボロの体に鞭を打ち、44歳の2012年までプレーを続けた。肩のケガがなければ、世界記録をさらに伸ばし、50歳近くまでプレーできたのではないかとも言われている。
プロ野球選手が引退を決断する理由はさまざまだ。成績不振、年齢、ケガ、チーム事情。その決断に至るまでの道のりには、自分の体や心の限界をはっきり突きつけられる瞬間がある。
中村晃にとっては、試合中のアクシデントと、その後の回復過程で味わった違和感がそうだったのかもしれない。星野、掛布、金本もまた、それぞれの“あの試合”を境に、現役生活の終わりを意識していった。
名選手の引退は、突然訪れるように見えて、実はどこかで静かに始まっている。その引き金となった試合を振り返ると、華やかな記録の裏側にある、選手だけが知る限界と葛藤が見えてくる。



