「いいか。自分以外の人間は、誰も信じるなよ」 黒のカリスマ「蝶野正洋」が“王座返上”して葬儀に駆けつけた「偉大な父親」の金言
もう、誰も仲間じゃない
理由は、マスコミを含む、事前の世評にあった。例えば以下は、その時の「G1 CLIMAX」が始まる6日前に発売された専門誌の表紙の大見出しである。
〈なぜだ! G1の下馬評 断トツで長州〉(「週刊プロレス」1994年8月9日号。表紙は長州力)
その他にも、橋本真也を推す声や、ぺイント・レスラー、「パワー・ウォリアー」に変身して乗りに乗っていた佐々木健介を支持する声もあった(※パワー・ウォリアーは準優勝)。だが、蝶野を優勝と予想する声は、この時、ほぼ無かったのだ。蝶野はその不満を、優勝直後のバックステージで吐き出した。
「なぜ俺の名前が挙がらないんだ!? 俺は2度もG1を制している! もう誰も仲間じゃない! みんな敵だ!」
翌月、それまでの白を基調としたコスチュームを一変させ、黒一色をまとった新装束の蝶野がリングに上がった。今に繋がる一大反逆スター、“黒のカリスマ”、蝶野正洋の萌芽の瞬間だった。2年後にはアメリカで大人気を博していたヒール軍団、『nWo』と結託。日本でも、他のプロ野球選手やJリーガー、タレントをファンや構成員として巻き込み、一大ブームを巻き起こした。実は蝶野には、1回目の『G1 CLIMAX』優勝時から不安があったという。
「優勝した翌日から、街でチヤホヤされるのかと思ったら、全然(苦笑)。2連覇した時も、せいぜいパチンコ屋でファンの人に『おめでとうございます』と言われるだけだった。それで4回目には優勝候補にも挙がらなかったでしょう? これはもう、俺自身が強く動いて行かなきゃいけないと思ったんですよね。俺自身で流れを作り出すんだと。それには本隊に喧嘩を売るのが、一番早かった」
蝶野は中学3年の時に、喧嘩で警察沙汰になった時のことが、忘れられないという。既に進学する高校も決まっていたが、この件で合格が取り消しになる可能性もあり、母は動揺して泣いてしまった。すると、父も警察にやって来て、聞いた。
「その喧嘩は、最初に誰が手を出したんだ?」
蝶野は正直に言った。
「俺だ」
「そうか。なら、いいんだ」
父は蝶野を、咎めなかった。
「お前が、自分の意思でやったのなら、それでいい。だけど、他人が始めた喧嘩に後から乗るのはダメだ。そういう最低な男には、絶対になるんじゃないぞ!」
蝶野は父に、幼少期のことを、聞いたことがある。
「親父は男の3兄弟で、俺と同じ次男坊だったんです。“蝶野3兄弟”と言えば、当時、有名なワルガキだったらしい。特に親父はね(笑)。俺が車の関係で粗相をして警察に捕まった時も、こう言ったくらいですから。『お前さあ、何で逃げなかったんだよ?』って(苦笑)」
しかし、戦争に取られた兄が戦死して、変わったという。
「それまで自由にやって来た次男が、今度はリーダーシップを取らなきゃいけないということで、意識が変わって行ったみたいなんですね。『自由にやって来た分、これからは俺がやらなきゃ』って。その辺が親父の仕事での栄誉に、繋がったんだと思う。『負けるんじゃない』が口癖でしたね……」
「新日本愛」を貫き通して
7年前、蝶野を主役にしたドキュメント番組が制作される機会があった。「一番、自分の中に残っている教えは?」の問いに、前出の、父に言われたという「自分以外の人間は、誰も信じるな」という言葉を挙げた。父の葬儀に蝶野がタイトルを返上してまで駆け付けたのは、冒頭に述べた通りである。
2000年11月、闘魂三銃士の中で最も新日本プロレスへの愛を強調していた橋本真也が団体を離れ、翌年には新団体ZERO-ONEを設立。2002年に1月には、絶対的なエース格だった武藤敬司も新日本を去った。
しかし、反体制と思われた蝶野が新日本を辞めることはなかった。それどころか、武藤退団の緊急事態に、リング上でアントニオ猪木からこう叱咤されている(2002年2月1日)。
「お前はただの選手じゃねえぞ、これから。いいか! プロレス界を全部仕切っていく器量になれよ! どうだ!」
「猪木さん、俺に全て任せて欲しい。この現場責任の全てを俺が全部やりますよ!(中略)新日本プロレス! もう一度ここで、最高の! プロレスラーの、レスリングを! もう一度よみがえらせる!」(蝶野)
闘魂三銃士の長兄格である武藤を失ったあとのこの姿に、兄を戦争で亡くした後、先頭に立って粉骨砕身した父の姿を重ね合わせるのは、うがった見方だろうか?
蝶野が新日本から離れたのはここから8年後の2010年1月。契約の満了による円満退社だった。リング上では、当時は若手とデビュー前の卵に過ぎなかった棚橋弘至と中邑真輔がエースとして躍動していた。
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