【豊臣兄弟!】秀吉の「不都合な真実」 明智光秀を破った『山崎の合戦』に間に合っていなかった!

国内 社会

  • ブックマーク

中国大返しと山崎合戦の常識がひっくり返る

 天正10年(1582)6月2日の早朝、京都の本能寺を宿所にしていた織田信長(小栗旬)は、外の騒がしさに目を覚ました。駆けつけた近習の森乱(市川團子)に尋ねると、明智光秀(要潤)の兵だという。信長はわずかな供回りだけを連れて、城ではなく寺に滞在していたから、押し寄せる敵兵を防御しきれない。死を覚悟した信長は、奥の部屋に移って腹に短刀を突き刺した。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第27回「本能寺の変」(7月12日放送)

 そのころ羽柴秀吉(池松壮亮)は、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしている最中だった。第28回「急げ! 秀吉」(7月19日放送)では、小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)からの急報を受けとった秀吉は、毛利側とのあいだで急いで和睦を成立させ、京都へ引き返す準備をする。ただ、ドラマでは、信長が死んだとは認めず、どこかに生き延びていると信じて、全軍に「走って走って走り続けよ!」と号令をかけ、6月11日には尼崎城(兵庫県尼崎市)に到着した。

 いわゆる「中国大返し」である。秀吉が尼崎まで引き返してきたという報は、すぐに光秀のもとに届けられたが、そのころ光秀は頼りにしていた人々に、軒並みそっぽを向かれていた。もっとも頼みにしていた細川藤孝(亀田佳明)も光秀の要請を拒み、挙句、出家して家督を嫡男の忠興に譲ると手紙に書いてきた。そこで、藤孝の居城だった勝龍寺城(京都府長岡京市)を占拠し、そこで羽柴軍を迎え撃つことにした。

 こうして6月13日の山崎の合戦に至るのだが、最近、中国大返しと山崎合戦について、これまでの常識がひっくり返る発見があった。秀吉は史上屈指ともいわれる大強行軍を成し遂げ、山崎合戦で光秀の軍を撃破したといわれてきた。秀吉の進軍のスピードはさほど速くなかった、という指摘もあるが、2万の大軍勢の移動だから、光秀はこれほど早く秀吉が戻るとは思っておらず、動揺につながった、という話だった。

 だが、そもそも秀吉は、山崎合戦に間に合わなかったというのである。

山崎合戦を戦ったのは秀吉でなく摂津衆

「新事実」は、黒田官兵衛の父である小寺職隆らに宛てて、秀吉がみずから書いた書状に記されていた。その書状は山崎合戦の当日にあたる6月13日の日中、山崎から12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)で書かれたもので、そこには「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と記されていた。「西岡」とは前述の勝龍寺城があるエリアで、たしかに光秀は決戦前日、池田恒興らによってこの城に追い込まれていた。秀吉はそれを知っていたので、14日に光秀がいる勝龍寺城を攻めるつもりで、そう書状に書いたのだろう。

 ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に勝龍寺から撃って出てしまったというわけだ。

 秀吉にくみする軍勢は、すでに合戦の前夜には布陣していた。池田恒興を中心に、中川清秀、高山右近らの摂津衆(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部にあたる摂津国の国衆)が最前線に着陣したという。そして、後方に秀吉の本陣が置かれたということになっているのだが、実際には、秀吉はそこにいなかったというのである。

 この文書は中京大学の馬部隆弘教授(日本近中世史)が令和6(2024)年に古書店で入手したという。書かれたとおりなら、秀吉は備中高松城から急行して富田のあたりまではたどり着いたが、肝心の合戦には間に合わず、参戦していなかったということになる。「大返し」によって山崎に近づきはしたものの、明智光秀の軍とは矛先を交えず、山崎で光秀の軍が戦ったのは、池田恒興らの軍勢だったということだ。

 だが、じつは筆者は、この「新事実」に接して、驚きよりも「やっぱりそうか」という思いのほうが強かった。なぜなら、秀吉が間に合わなかった旨は、イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが『日本史』に、次のように書いていたからである。

次ページ:宣教師が書いていた「秀吉の遅参」

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。